エドガー・アラン・ポーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品も紹介】

逸話3「謎の死を遂げる」

1875年以前のポーの埋葬場所を示す石碑
出典:Wikipedia

エドガー・アラン・ポーの死因については、現在でも謎に満ちています。彼は死の直前に若い頃の恋人エルマイラと再会し婚約していました。しかし、結婚式を控えた1849年10月に酒場で泥酔しているところを発見されたのです。

すぐに病院に運ばれて治療が行われましたが、4日後に亡くなりました。ポーは話ができる状態ではなく、なぜ酒場で泥酔していたのかなど詳細な部分は謎に包まれています。

不思議なことに発見当初ポーは他人の衣服を着ており、死ぬ直前はひたすら「レイノルズ」という言葉を繰り返していました。

旅行者は不正投票に利用されやすかった

ポーの死の原因として1番有力な説は「選挙の不正投票に利用された」ことです。ポーが泥酔していた日は議会選挙の投票日であり、無理矢理に泥酔させられ複数回投票させる悪質な不正行為に利用されたと考えられています。

死亡診断書や死亡証明書が紛失しているために、ポーの死因ははっきりしていません。急性アルコール中毒による心臓病や髄膜炎などが説として挙げられていますが、真相は闇の中です。

エドガー・アラン・ポーの生涯年表

1809年 – 0歳「エドガー・アラン・ポー誕生」

俳優と女優の間に生まれたポー

1809年1月19日、エドガー・アラン・ポーは俳優業をしていた両親の間に次男として誕生。父方の祖父はアメリカ独立戦争で活躍した「ポー将軍」と呼ばれる人です。

母親が妹を身籠っている最中に父親が失踪。兄ウィリアムは父親の実家にいましたが、ポーは引き取っていたため生活は一気に困窮しました。妹の出産間近で収入はなく産後の体調も悪かったため、結核にかかり亡くなってしまいます。

アラン家の養子になる

物心つく前に両親を亡くしてしまったポーと兄妹たち。ポーは両親の友人アラン家の養子となり兄は父親の実家に行き、妹はアラン家の友人に引き取られることとなりました。

1815年 – 6歳「家族でイギリスへ」

19世紀初頭のイギリスの首都ロンドン
出典:Wikipedia

アラン家の主人ジョン・アランは輸入業を営む商人であり、事業の拡大を狙って一家揃ってイギリスへ旅立ちました。もちろん、ポーもついて行きイギリス各地を転々とする日々を送ります。

スコットランドで短期間だけ学校に通い、その後はロンドンで寄宿学校に入学。しかし、義母の体調が悪くなったためにロンドン郊外へ転居し新たな学校に再入学することになりました。

1820年 – 11歳「アメリカへ帰国」

イギリスでの事業が思うように行かないと悟ったアラン家は早々にアメリカへ帰国。ポーはアイルランド系の学校に通うことになります。古典文学やフランス語、ラテン語などの語学を学び、優秀な成績を取りました。この頃からポーは詩を書き始めます。

1826年 – 17歳「ヴァージニア大学へ入学」

ヴァージニア大学の紋章
出典:Wikipedia

17歳で開校したばかりのヴァージニア大学へ進学。ヴァージニア大学は1819年に設立されましたが、学生の入学は1825年からでした。ヴァージニア大学では自主性を重んじており科目も自由に選択できたため、ポーにとっては過ごしやすい場所でした。

文学や古代地理など様々な学問を学びながら、大学前に婚約した恋人に手紙を送っていたポー。しかし、若い大学生ではなく裕福な商人に娘を嫁がせたかった彼女の父親により手紙は捨てられており、悲しいかなポーは失恋してしまいます。

この頃のポーはトランプ賭博に手を出しており、2000ドルという莫大な借金を抱えることになりました。義父ジョンが生活費の借金は返済してくれたものの賭博の借金はポーが背負うことになり、彼は大学を辞めざる得なくなります。

1827年 – 18歳「アメリカ陸軍に入隊」

陸軍時代にポーが配属された砦
出典:Wikipedia

借金を抱えたポーはボストンへ向かい、名前と年齢を偽ってアメリカ陸軍に入隊しました。最初の給与は月5ドルでしたがポーはどんどん昇進して給与も増えていき、下士官の最高階級にまで上りつめたのです。

ポーは軍隊生活の間にも詩を書いており、2つの詩集を出版することに成功しています。どちらもあまり反響は起きませんでしたが、ポーの作品がここから始まったことは確かでしょう。

しかし、軍隊の生活が合わなかったのかポーは早期除隊を申し入れ自分の本当の名前と年齢を上官に明かします。その後、陸軍士官学校に入学しましたがそこでの生活もポーの思っていたようなものではありませんでした。そのうえ、再婚問題を巡って義父と対立し勘当されてしまいます。

1831年 – 22歳「陸軍を放校処分で除隊」

義父の勘当により陸軍を追放されたポーは文学者として本格的に執筆を開始しました。叔母の家に居候しつつ、短編小説を執筆。その中の『瓶の中の手記』が雑誌で最優秀作を取り、作家ジョン・P・ケネディと親しくなるきっかけとなりました。

サザン・リテラリー・メッセンジャーでのポーの短編恐怖小説『ベレニス』
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経済的に困窮していたポーをケネディは支え、ポーは雑誌『サザン・リテラリー・メッセンジャー』への掲載と編集者の職を紹介されます。ポーは作家としても敏腕編集者としても腕を振るい、『メッセンジャー』の発行部数を大きく跳ね上げました。そして、叔母を説得して13歳の少女ヴァージニアと婚約したのです。

1836年 – 27歳「ヴァージニア・クレムと結婚」

当時住んでいたアメリカのメリーランド州ボルティモアの裁判所から許可を受けて、ポーは10歳以上歳の離れたヴァージニアと結婚しました。この頃は雑誌の仕事も順調であり、ポーは家族や知人を招いて結婚式を開いたほどです。

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