正岡子規の代表作
代表的な俳句作品
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
松山で夏目漱石と暮らした後、上京する途中で立ち寄った奈良での俳句です。漱石の句「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」への返句ともいわれています。江戸時代まであまり漢詩にも和歌にも詠まれてこなかった柿が日本の秋の風物詩のように言われるようになったのは、松尾芭蕉や子規の句のおかげでした。
鶏頭の十四五本もありぬべし
「鶏頭の花が14、5本ほどあるだろうか」というだけのシンプルな俳句です。子規の文学は何よりも「写生」を大事にしているので、このような見たままを表現した句が生まれました。後年、この句の評価をめぐっては意見が対立し「鶏頭論争」とまでいわれましたが、斎藤茂吉や山口誓子はこの句を高く評価しています。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
1902年9月18日の午前中に書かれた「絶筆三句」のなかの1句です。翌日の午前1時ごろに子規は息を引き取りました。糸瓜(へちま)は当時痰を切る薬として使われていて、この句では「へちまの花が咲いたけれど、痰がつまって仏となる(死ぬ)自分の身には間に合わないだろう」と詠われています。
岩波文庫「子規句集」では、子規の遺したおよそ2万3000句のなかから、2306句を選んで収録しています。改訂版には初句から句を探せる索引もついています。解説は子規研究の第一人者・坪内稔典です。
代表的な短歌作品
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは
「四国猿」とは子規のペンネームの1つ。四国・松山から上京してきた自分を自虐的にそう呼びました。自分の号を生かしてユーモラスに詠みながら、どこか「四国猿」である自分への誇りも感じられる歌です。
くれなひの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
「2尺(約60センチ)ほどバラの柔らかな新芽が伸びたところに、春雨が降っている」。子規の得意とする写生を生かした歌です。「やはらかに」という語はバラの芽にかかる言葉ですが、後に「春雨」と続くことで春の雨の優しさ、柔らかさも感じられます。
佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに
死の前年に詠まれた歌です。「佐保神」とは、春の女神・佐保姫のこと。「佐保姫との別れが悲しい。私が再び春を迎えることはないだろうから」と詠っています。
岩波文庫「子規歌集」では、短歌840首に旋頭歌6首を収録されています。俳句の世界で提唱し始めた「写生」を短歌に応用することで、子規は明治歌壇の革新者となりました。
代表的な随筆集
墨汁一滴
新聞「日本」に1901年から164回にわたって連載された随筆です。子規はもう寝たきりになっていたのですが、「墨を1度筆に含ませただけで書ける短い文章」という意味で「墨汁一滴」と題して連載しました。俳句や短歌に関する文学論や病床で日々思うことなど、さまざまなテーマで書かれています。
仰臥漫録
「墨汁一滴」の連載の後に書き始めた日記です。こちらは新聞で発表などはされず、あくまで私的な子規の記録となっています。そのため病気の苦しみや悲しみが赤裸々に表現されていて、子規の生の感情に触れることができます。
病床六尺
1902年、亡くなる2日前まで連載を続けた子規最晩年の随筆です。誰がお見舞いに来た、庭の花が咲いた…など病床での出来事を淡々と、しかし明るい書きぶりで記しています。
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