正岡子規の生涯年表
1867年 – 0歳「伊予国温泉郡に生まれる」
松山藩士の長男として誕生
正岡子規は1867年10月14日、伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に生まれました。父は正岡常尚といい、松山藩の馬廻(大名の護衛)をしていた武士です。母は儒者・大原観山の娘で八重という女性でした。
子規の本名は常規(つねのり)といいます。これは大人になってつけられた名前で、生まれたときは「処之助(ところのすけ)」といいました。けれども父・常尚が「『ところてん』といじめられたらかわいそうだ」といい、「升(のぼる)」に変えられたといわれています。
父は子規が6歳のときに亡くなっています。子規は家督を相続し、母・八重と3つ下の妹・律と3人で暮らしていました。
気が弱いながらも勤勉な子供
1873年、子規は正岡家の菩提寺・法隆寺にあった末広学校に通い始めます。子供の頃は気が弱く、ちょっかいを出されやすいタイプだったそうです。けれども真面目に勉学に打ち込む面もあり、母方の祖父である大原観山から漢文を習ったり、伯父の佐伯半弥からは書道を教え込まれたりしていました。
末広学校は後に智環学校と改称し、さらに勝山学校と合併しました。現在では松山市立番町小学校となっています。司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公の1人・秋山真之や、俳人の河東碧梧桐もこの学校の出身です。
1880年 – 13歳「松山中学に入学」
「五友会」を結成
1880年、正岡子規は松山中学に入学しました。この頃は文学の好きな友人たちと「五友会」というグループを結成し、お互いの詩を批評し合ったり、回覧雑誌を作って回したりしていました。五友会のメンバー・竹村鍛(きとう)は俳人・河東碧梧桐の兄弟で、子規たちは2人の父・河東静渓に漢詩を教えてもらっていました。
また、この頃は自由民権運動の盛り上がっていた時代でした。子規もその影響を受け、演説することもあったようです。政治家になりたい気持ちが芽生え、上京を志すようになりました。
1883年 – 16歳「上京」
東大予備門に入学
1883年、正岡子規は16歳で上京しました。上京後はまず「共立学校」という現在の予備校のようなところに入学し、翌年には東大予備門に合格しています。東大予備門は東京大学の予備機関(1886年には第一高等中学校に改組)でしたが、当時でも現在の東大のように難関でした。
政治家になりたかった子規でしたが、この頃は哲学を一生の仕事にしようと考えていました。その一方、記録に残る中で初めての俳句「雪降るや棟の白猫声ばかり」を詠んだのもこの頃でしたし、小さいころから学んでいた漢詩も続けていました。哲学を志しながら、俳句や和歌、漢詩に親しむことは子規にとって自然なことだったのです。
また、野球を始めたのもこの頃でした。キャッチャーとして活躍し、1889年には故郷の松山にバットとボールを持って帰って、母校・松山中学の生徒に教えたりしています。
夏目漱石と知り合う
東大予備門時代には夏目漱石との出会いもありました。前年に子規が執筆した「七艸集(しちそうしゅう)」に漱石が批評を寄せたことから縁が深まったといわれています。「七艸集」は隅田川にゆかりのある文学作品を集めたもので、漢文や俳句、謡曲など7種類の文学を「萩の巻」「女郎花の巻」など秋の七草になぞらえてまとめたものです。
「七艸集」に批評を寄せたときに、漱石は初めて「漱石」の号を用いました。「漱石」とは「石にすすぎ流れに枕す」という故事成語からとられた号で、元々は子規が使っていた名前です。漱石は「七艸集」に触発されて、房総半島への旅をもとにした「木屑録(ぼくせつろく)」を著しました。
「子規」の号を使い始める
1889年の5月、子規は初めて喀血してしまいます。「肺結核」と診断された喀血は1週間ほど続くのですが、このことがあって子規は号を「子規」とするようになりました。「子規」とは「鳴いて血を吐く」といわれているホトトギスの漢字表記です。
この頃から、子規は古俳諧の分類を始めました。古俳諧とは主に、松尾芭蕉以前の貞門・談林時代の俳諧のことを指します。子規の俳諧の師匠・大原其戎(きじゅう)が亡くなったことも関係しているといわれています。
1890年 – 23歳「文科大学に入学」
哲学から文学へ方向転換
1890年9月、正岡子規は文科大学(現・東京大学文学部)に入学しました。入学当初は以前からの希望通り、哲学科に所属していました。けれども翌年2月、国文学科に転科して文学者を目指すようになります。
子規は上京後、「常磐会」という松山出身の人々の寄宿舎に3年ほど暮らし、育英基金の給費も受けていました。常磐会では給費が受けられるのは25歳までという決まりがあったため、子規も駒込追分町にある家の離れに部屋を借りて独立しました。子規が文学者として身を立てようと思った背景には、このような経済的事情も関わっていると考えられます。
文学者を志した子規は、以前から続けていた古俳諧の分類とシンプルな俳句の確立のほかに、小説の執筆も目標に掲げました。けれども1892年に書き上げた処女作「月の都」を小説家・幸田露伴に見せたところ、「気合が入りすぎている」とあまりよくない反応をされてしまいます。哲学から文学へと方向転換をした直後の子規は、少しばかり低迷していたようでした。
盛んに旅をする
1890年、子規はたくさんの旅をしました。春の千葉・房総旅行は夏目漱石の「木屑録」に影響を受けたもので、その旅行記は「かくれみの」にまとめられています。木曽旅行では「かけはしの記」を著し、また画期的な漢詩集「岐蘇雑詩三十首」のきっかけにもなりました。
11月の武蔵野旅行では、それまでにも書いてきた俳句に改めて目覚めました。武蔵野の風景の写実的に句にしたためることで、子規の俳句は一歩前進したのです。
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