正岡子規とはどんな人?生涯年表まとめ【代表作や死因、漱石との関係も紹介】

1900年 – 32歳「漱石との別れ」

漱石留学後は手紙のやりとりを重ねた
出典:トラベルブック

漱石のイギリス留学が決定

1900年8月、イギリス留学に旅立つ直前の漱石が子規庵を訪れました。この日に別れてしまえば、もう再び会えないだろうことは分かっていました。同じ月に子規は大きな喀血を起こしていて、人力車での外出もできないほど衰弱が進んでいたからです。

漱石がイギリスに旅立ってから、2人は手紙をやり取りして友情を続けました。1901年11月に子規が出した「僕ハモーダメニナツテシマツタ」で始まる手紙には、病気の辛さと孤独がにじんでいます。それでも突然文面に現れる「倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ」の一文には、子規独特のユーモアが顔を覗かせていて切ない気持ちになります。

「墨汁一滴」と「仰臥漫録」

仰臥漫録
出典:日本の古本屋

漱石との別れの翌年、1901年1月から子規は「墨汁一滴」と題した随筆を書き始めました。タイトルは「1度墨を筆に含んだだけで書ける短い文章」という意味ですが、その短文で子規は歌論を書いたり短歌を詠んだりしています。

陸羯南が清国に渡ったのをきっかけに「墨汁一滴」は終わりを告げたのですが、羯南が帰ってくると「仰臥漫録」を書き始めます。病床での様子を赤裸々に綴ったこの著作は亡くなる直前まで続き、現在の私たちにも子規の夢や苦しみを伝えてくれます。

1902年 – 34歳「子規庵にて死去」

子規の墓は東京・北区大龍寺にある
出典:猫の足あと

「病床六尺」の執筆

子規の痛みは想像を絶し、モルヒネなしには生きていけない状態でした。そのようななか、最後の力をふり絞って「病床六尺」を「日本」に連載し始めます。この頃には筆を持つ力もなく、多くは口述筆記によって書かれたといわれていますが、明るい書きぶりは多くの読者の心を打ちました。

「絶筆三句」を遺した数時間後に亡くなる

ヘチマの花が詠まれた「絶筆三句」
出典:Pixabay

1902年9月17日、子規は「病床六尺」第127回の原稿を書き上げます。その翌日、午前11時ごろに次の3句を詠みました。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき

当時痰をとる薬になるといわれていたヘチマを詠んだこの句は、「絶筆三句」と呼ばれています。この13時間後、1902年9月19日午前1時ごろに子規は34歳で亡くなりました。苦しい闘病のなかでも文学のことを考え続けた生涯でした。

正岡子規の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

坂の上の雲

言わずと知れた歴史小説家・司馬遼太郎の長編小説です。正岡子規と、同じように松山で育った軍人・秋山好古と真之の兄弟を中心に物語が展開してきます。文庫本にして全8冊の大長編ですが、明治時代という誰もが高揚していた特別な時代のことがわかります。

ノボさん

東大予備門で出会った正岡子規と夏目漱石を描いた長編小説「ノボさん」。司馬遼太郎賞も受賞した伊集院静の名作です。子規がいかに周囲の人々に愛された魅力的な人物だったかがよく伝わってきます。

正岡子規

アメリカ出身で日本文学研究の第一人者であるドナルド・キーンが著した正岡子規の評伝です。冷静でわかりやすい筆致はいきいきとした子規の実像を浮かび上がらせてくれます。

おすすめの動画

【俳人列伝】正岡子規について語ります

バラエティ番組でも大人気の俳人・夏井いつきさんと、息子で俳句講師の家藤正人さんが、正岡子規の俳句を分かりやすく解説している動画です。2人がとても楽しそうに紹介してくれるので、俳句に親しみがない人でも楽しめます。こちらの動画では子規の1月の句が紹介されていて、2月、3月と続いています。

『ちば見聞録』#062​「文人の歩いた道~夏目漱石・正岡子規~」(2016.6.4放送)【チバテレ公式】

夏目漱石が「木屑録」で旅し、後に正岡子規が「かくれみの」で訪れた房総半島を紹介している動画です。「木屑録」「かくれみの」の旅程や本文を紹介しながら、現在の千葉の景色も見せてくれます。

知の回廊 第36回『松山文学散歩 正岡子規 編』

中央大学公式チャンネルで、愛媛県松山市で子規の足跡を辿っています。子規と漱石が暮らした愚陀仏庵も訪れていて、資料館所蔵の写真や句会の記録も見られます。冒頭では東京・台東区の子規庵を訪れているのも興味深いです。

おすすめドラマ

坂の上の雲

2009年から3年にわたってNHKで放映された、司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」を原作とするドラマです。正岡子規を香川照之が演じています。本木雅弘が秋山真之を、阿部寛が秋山好古を演じるなど、豪華なメンバーです。

関連外部リンク

正岡子規についてのまとめ

正岡子規の生涯を、その功績とともにご紹介していきました。

子規の生涯は34年と短いものでしたし、そのうち7年間は苦しい病気のうちにありました。けれども彼は病床から俳句や短歌を、ひいては日本語を革新していきました。辛い環境にありながら自分の使命をやり遂げる、その希望を持ち続ける強さを筆者は子規から学んだように感じます。

この記事を読んでくださったあなたが、子規のことを好きになってくれたらとても嬉しいです。

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