正岡子規とはどんな人?生涯年表まとめ【代表作や死因、漱石との関係も紹介】

1892年 – 25歳「新聞『日本』の記者になる」

日本新聞社の社長・陸羯南
出典:Wikipedia

文学者としてデビュー

1892年、正岡子規は新聞「日本」に連載を始めました。「日本」は子規の叔父の友人でジャーナリストだった陸羯南が社長を務める新聞社で、その縁もあって羯南は子規の面倒を見るようになったのです。この年に子規は羯南の家の近所に引っ越しています。

子規はこの年の「日本」に「かけはしの記」「岐蘇雑詩三十首」「獺祭書屋俳話」を掲載しました。後年の文学史では、「獺祭書屋俳話」から近代俳句が始まったといわれています。けれどもこの著作では、松尾芭蕉門下の俳人論や、俳諧作法の批判が中心でまだ「俳句革新」の方向性は定まっていませんでした。

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文科大学を中退

1892年12月から日本新聞社の社員となった子規は、翌年3月に文科大学を中退しました。7月には芭蕉「奥の細道」をふまえて東北を旅し、「はて知らずの記」にまとめています。

また、この年に発表した「芭蕉雑談」では、神聖視されてきた松尾芭蕉の俳句を改めて論じることで、芭蕉の再評価に繋げました。芭蕉を絶対視してきた江戸時代後期から100年ほどの俳人の句を「月並み調」と呼び、「目新しさのない陳腐なものだ」と批判しています。子規のこの言葉から、現在「ありふれていて平凡なこと」を指す「月並み」という言葉が生まれました。

1895年 – 27歳「従軍後の喀血」

1894年に日清戦争が起こった
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日清戦争の従軍記者となる

1894年、日本と清国の間で戦争が起こります。正岡子規は結核を患う身でありながら、周囲の反対を押し切って従軍記者となりました。1895年3月に東京を出て、柳樹屯、金州、旅順とまわって戦況を伝えました。

子規が遼東半島に着いた2日後の1895年4月17日、下関条約が調印され日清戦争は終結しました。清国に滞在中、子規は陸軍軍医として従軍していた森鴎外と親しくなりました。鴎外は帰国後、子規の自宅で催された句会にも参加しています。

従軍期間は短いものでしたが、初めて国外に出たことは子規にとって有意義な体験だったことでしょう。けれども、帰国中の5月17日に子規は喀血し重体に陥ります。日本に帰ってからは神戸や須磨で療養し、8月に故郷の松山に戻りました。

松山で漱石宅に居候

松山で漱石と子規が暮らした愚陀仏庵
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松山に帰ってきた子規は実家ではなく、当時松山中学で英語教師をしていた夏目漱石の家「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」に滞在しました。およそ50日間、子規と漱石は同居したことになります。このとき漱石は子規に俳句を勧められ、作句を始めました。

この前年、松山では子規の中学時代からの友人・柳原極堂によって新派俳句結社「松風会」が結成されていました。体調が回復してからは子規も句会を催したり、柳原に俳句を指導したりしています。また「日本」「海南新聞」の2つの新聞に「俳諧大要」を発表、自身の俳句観を論じました。

1895年10月17日、子規は松山を出て再び東京に向かいました。上京の途中、奈良に立ち寄って「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を呼んでいます。この奈良旅行が子規の最後の旅となりました。

1896年 – 28歳「病床での文学活動」

正岡子規は晩年を東京・台東区根岸の子規庵で過ごした
出典:Go Tokyo

脊椎カリエスと診断される

奈良吟行で、子規は激しい腰痛に苦しめられていました。東京に戻ってきた翌年の1896年3月、「脊椎カリエス」の診断が下ります。結核菌が脊椎の中に入り込んで起こる病気です。

激しい痛みを伴う病気でした。最初の頃こそ庭に出たり、人力車で外出したりできていた子規でしたが、年月が経つにつれて寝たきりの状態になっていきます。寝返りを打つこともままらなず、「大声で泣いた方が痛みがまぎれるから」と号泣していたそうです。

認められてきた子規の「新しい俳句」

令和3年4月号の「ホトトギス」
出典:Fujisan.co.jp

布団から起き上がることも難しい状態でしたが、子規の文学への意欲は衰えませんでした。1896年1月の子規庵で催された句会には、友人の漱石や後輩である高浜虚子・河東碧梧桐のほか、清国で知り合うことができた森鴎外も訪れています。鴎外の主宰する文芸誌「めさまし草」にも俳句を寄稿しました。

俳句活動のほかにも、新聞「日本」で随筆「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」の連載をしたり、新体詩運動に参加したりしています。1897年には故郷・松山で友人の柳原極堂が文芸誌「ほととぎす」を創刊、子規も全面的に協力しました。「ほととぎす」は翌年東京に本拠地を移し、高浜虚子が編集を担うようになりました。

1897年、子規が責任編集のもと「俳人蕪村」が刊行されました。現在でこそ与謝蕪村は「なの花や 月は東に日は西に」などの名句で知られる俳人ですが、明治時代では忘れ去られた存在でした。子規はその蕪村にスポットライトを当て、「松尾芭蕉の句よりも優れたものもある」と述べて世間を驚かせました。

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「歌よみに与ふる書」を発表

「歌よみに与ふる書」から短歌革新が始まった
出典:産経ニュース

1898年の2月から、子規は「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載しました。この連載は、平安時代から続いてきた伝統的な和歌の価値観を否定することで、現在まで続く近代短歌への足がかりとなりました。

子規は「古今和歌集」やその編者の紀貫之を「くだらない」と否定し、それより前の「万葉集」のような歌に回帰するべきだと主張しました。自身の俳句や散文にも取り入れたように、短歌も写生を重んじるべきだとしています。これらの主張は当時の歌壇からの強い反発を招いたほか、後の文学者たちにも批判されました。

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