正岡子規とはどんな人?生涯年表まとめ【代表作や死因、漱石との関係も紹介】

正岡子規の功績

功績1「俳句を『文学』と位置づけた」

2017年には新たに子規の直筆の俳句が発見された
出典:産経ニュース

現在でこそ日本文学のジャンルとして確固とした地位を築いている俳句・短歌ですが、明治時代以前は「文学」とは考えられていませんでした。江戸時代まで、日本文学の主流は貴族がたしなむ和歌や連歌などが担っていました。連歌から派生した「俳諧の発句」は、庶民の遊びで俗なものとされていたのです。

明治という新しい時代を迎え、子規は高尚な連歌などは廃れていくだろうと予期していました。そこで「俳諧の発句」を縮めて「俳句」と呼び、俳句革新運動を始めたのです。俳句の盛り上がりによって、江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の「俳諧の発句」にもスポットライトが当たるようになりました。

功績2「『写生文』を完成させた」

「鶏頭の十四五本もありぬべし」は写生句の真骨頂
出典:HORTI

子規はヨーロッパ美術の「写生(スケッチ)」を文学に応用することを提唱しました。子規が美術分野での「写生」を知ったのは1894年、友人の画家・中村不折に教わったときのことです。この年から子規は、手帳と鉛筆を携えて屋外で俳句を作るようになりました。

子規は文学手法としての写生を万能とみなしていたわけではなく、平凡に陥りがちという欠点も認めています。けれども、松尾芭蕉を絶対視していた俳人たちの句(これを子規は「月並み調」と呼びました)から抜け出すには写生が有効だと考え、俳句革新運動を進めました。さらに彼は、短歌・散文にも写生の手法を転用していき、シンプルな文章で物事をありのままに書く「写生文」を完成させました。

功績3「日本語の近代化を推し進めた」

近代化していく日本語の象徴ともいえる二葉亭四迷「浮雲」
出典:産経ニュース

子規が日本文学に取り入れた「写生」は、現代日本語の基礎を築きました。今でこそ「ありのままを活写するように書く」という文章表現は目新しい方法ではなくなりましたが、子規の生きていた明治時代ではまだ難しいことだったのです。

明治時代には、二葉亭四迷「浮雲」のように日常の話し言葉に近い言葉で書く「言文一致(げんぶんいっち)」運動が起こりました。子規は1898年頃まで文語体で書いていたのですが、自身の提唱する「写生文」には言文一致の口語体が適していると認め、以後は口語体で写生文を書いています。写生文は日本語の近代化に大きな役割を担いました。

正岡子規の名言

文章は簡単ならざるべからず、最も簡単なる文章が最も面白きものなり。

随想録「筆まかせ抄」に書かれた言葉です。シンプルな文章が何よりも面白いものなのだ、と述べています。「筆まかせ抄」は1884年から1892年にかけて書かれたものなのですが、この言葉は後の「写生文」の提唱にもつながっていると感じます。

病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

最晩年の随筆「病床六尺」の言葉です。6尺はおよそ190センチ、敷布団ほどの長さ。子規はこの頃、敷布団の長ささえも持て余すほど衰弱していました。

悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

こちらの「病床六尺」に見える言葉です。禅宗でいう「悟り」とは、どんなときでも平気で生きていけることだったというこの言葉は、自身の死が目前に迫った子規だからこそ達した境地でしょう。先ほど、この頃の子規は6尺の敷布団さえも持て余すほど弱っていたと紹介しましたが、彼の心はあくまで健康でこのような境地さえ垣間見えるほどでした。

正岡子規にまつわる逸話

逸話1「ペンネームは100以上!?」

「子規」というペンネームはホトトギスという鳥からつけられた
出典:Tenki.jp

子規はたくさんの号(ペンネーム)を使い分けていたことでも知られています。「子規」という号は主に俳句で使われました。1889年5月に初めて喀血したのを機に、「鳴いて血を吐く」と言われている野鳥・ホトトギスの漢字表記である「子規」を使い始めました。

短歌では「竹の里人」、俳論などでは「獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)」、ほかにも「香雲」「地風升」「越智処之助」など、号の数は100以上あるといわれています。大好きだった野球に自身の幼名・升(のぼる)をかけた「野球(のぼーる)」と名乗ったこともありました。

逸話2「病身ながらも大食漢だった」

「牛乳ココア入」が好物だった
出典:Pixabay

子規は大食いで、病床でも変わることはありませんでした。寝たきりになってからは、食べることに命の輝きを見出していたといえるかもしれません。衰弱して胃腸が食べ物を消化しきれなくなっても、子規は食べ続けました。

「仰臥漫録」には、毎日の食べたものが記録されています。例えば1901年9月19日、子規が亡くなる1年前の日のおやつは「牛乳5勺ココア入 菓子パン 塩せんべい 飴1つ 渋茶」です。「牛乳ココア入」というのは現代でいうココアで、子規は好んでおやつに飲んでいました。

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