沖田総司の剣術と愛用の刀は?
剣術の天才といわれていた
沖田総司は「剣術の天才」とも呼ばれる人物でした。腕前は、天然理心流と北辰一刀流の免許皆伝を持つ天才的な腕の持ち主であり、逸話の一つに12歳の時に白河藩の指南役と試合をし勝利したという記録が残っています。永倉新八は後年、
「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」
と話しています。実際竹刀で近藤と試合すると、一段も二段も上をいっていたといいます。沖田の剣技で有名なのは「三段突き」という、平正眼の構えから踏み込みの足音が一度も鳴らないのにその間に三発繰り出すという技です。つまり相手は一突きしかされていないと思っている間に、三突きされているという常人離れした技を使っていたそうです。
沖田総司の愛刀は?
沖田総司の愛刀でわかっているものは、「加州清光」と「大和守安定」です。また最近はほぼ否定されていますが、「菊一文字則宗」を持っていたともいわれています。
持っていたことがわかっている「加州清光」は、池田屋事件の時に使用した刀といわれています。事件の時沖田は体調不良のために途中までの参加でしたが、激しく戦闘した為に刀の先端が折れてしまっていました。この刀を修理に出したという記録が残っています。
「大和守安定」は切れ味が鋭く「虎徹」に似た切れ味だったといいます。沖田は師である近藤勇を尊敬していて、技や掛け声までそっくりだったそうです。そのため刀も近藤が愛用する虎徹に似たものを選んだのではないかと考えられています。
また「菊一文字」を持っていたという噂もありますが、菊一文字は大名でも手に入るのが難しい名刀であり、金銭的にも沖田が持っていた可能性は低くただの噂であろうと考えられています。
沖田総司の死因は?
沖田総司の死因は「労咳(肺結核)」といわれています。沖田が肺結核で亡くなったのはかなり有名で、映画や小説で池田屋事件の最中に喀血し戦線を離脱するというエピソードが組み込まれ、沖田の有名なシーンの一つとなっています。
しかし近年は池田屋事件の喀血は創作ではないかといわれています。なぜならば、喀血は肺結核の中でも末期症状であり、沖田が死去したのは1868年で池田屋事件の4年後であり発症の時期として早すぎるのが理由です。
一般的に肺結核は発症して1年ぐらいで死に至るといわれています。ただし一度かかっても持ち直して10年以上生きる人もいたので全くないとも言い切れず、結局は沖田が結核にかかった時期は憶測しか出来ないのが現状です。
沖田総司は本当にイケメンだったのか?
沖田総司は「肺結核で早世した天才剣士」のイメージから、なんとなく線の細い病弱なイケメン剣士として描かれることが多い人物です。果たして沖田総司はイケメンだったのか?結論から言うと、実はイケメンではなかったのではないかといわれています。
沖田の肖像画で有名なのが上記の画ですが、これは昭和に入って描かれたもので、モデルは姉・みつの孫の要をモデルに描いたものです。みつが「どことなく総司に似ている」ということから描かれたそうです。画を見る限りイケメンかというと、否定的な意見が出そうですね。
容姿の特徴で挙げられるのに「ヒラメ顔」というワードがあります。これは新撰組後援者の曾孫がテレビで言った言葉で、つい口が滑って言ってしまったと後で訂正されていますが、要は両目が中央に寄りがちな顔だったと言いたかったそうです。
ただし非常に冗談好きで良く笑う青年だったといわれています。もしかしたら雰囲気イケメンだったのかもしれませんね。新撰組に関わった人物による沖田の容姿は「笑うと愛嬌がある」「色黒」「猫背の長身」「肩が張り上がった」などです。
創作作品で見る「色白の美男子像」とは真逆の人物像が浮かんできます。ただし沖田家の間では総司の容姿は「色が白くて小柄だった」と今でも伝わっているそうです。沖田の写真や肖像画は今のところ見つかっていないために証言から想像するしかないのが現状ですが、結局謎に包まれているところが沖田の人気の秘訣なのかもしれません。
沖田総司のことを詳しく知れてよかったです。あと、ひとつ疑問なんですけど、新せん組の、「せん」は、「選」か「撰」どっちですか。❓