沖田総司の生涯年表
1842年 – 0歳「江戸白河藩屋敷で天才剣士誕生する」
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陸奥国白河藩藩士足軽・沖田勝次郎の息子(長男)として、江戸の白河藩屋敷で生まれました。生年は、1842年説と1844年説とあり、生まれた月もわからず、夏に生まれたことしかわかっていません。沖田家の記録では「25歳没」となっているので、そちらを取ると1844年生まれということになりますが、上洛した時22歳だったという記録があり、こちらを取ると逆算して1842年になります。
1845年に父勝次郎が死去。本来ならば長男の総司が家督を継ぐべきですが、幼少だったために姉のみつが婿養子をとって沖田家を相続しています。
試衛館に入門し頭角を表す
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当主にならなかった沖田は家が貧しかったこともあり、9歳に天然理心流の道場・試衛館の内弟子となっています。ここでは、後に新撰組で一緒に活躍する近藤・土方と同門でした。そこで沖田は天才的な剣技の才能を開花。10代前半には試衛館塾頭を務めて、1856年には近藤と調布に出稽古に出かけている記録が残っています。
1863年 – 22歳「浪士組結成の際に上京する」
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沖田は浪士組結成の時近藤について、京に上洛しました。そもそもの発足理由は、京都所司代と町奉行だけでは治安が維持できないために、将軍警護の名目で浪士を募集したものでした。そして求人は江戸で行われ、京に移動しましたが集まった浪士たちは本当の目的を教えられていなかったといいます。
浪士組を企画した出羽庄内出身の浪士・清河八郎は「実は浪士組は僧郡護衛の組織ではなく、実は攘夷のための集団だ」と京で演説をしています。それを聞いてそれを阻止するために江戸に向かうもの、近藤や芹沢などの水戸派は求人通り京に留まり将軍警護のために京に残留しました。結局京に残ったのは13名でその中に沖田も含まれており、京都守護職・松平容保預かりの新撰組が発足したのです。
芹沢鴨暗殺と内山彦次郎暗殺
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同年9月には浪士組局長だった芹沢鴨を暗殺しており、沖田が参加しています。権力を得たい近藤が、島原の角屋で暗殺したというものです。事件の本当の動機はわかっていませんが、水戸の家臣だった芹沢が近藤たちを馬鹿にしたのが原因とも、会津藩から横暴な芹沢の静粛の命を受けたからともいわれています。どちらの理由にしても、近藤にとっては新撰組の権力を集中させる絶好のチャンスだったのです。
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また翌年、大阪西町奉行与力・内山彦次郎の暗殺にも参加しています。近藤や土方らと共に天満橋又は天神橋で襲い、首は斬られ斬奸状と共に晒されました。内山を襲った動機は、新撰組と大阪力士の乱闘に内山が関与していた嫌疑と、高圧的な態度に近藤との間に確執が出来たこと、討幕派志士と結託して米や油の値段が吊り上がったことへの天誅だったといわれています。
1864年 – 23歳「池田屋事件に参加する」
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1864年に池田屋事件に参加しています。池田屋で集まっている倒幕志士は長州藩で御所周辺の火を放ち、公武合体派の諸侯を暗殺。天皇を拉致するというとんでもない計画でした。新撰組は倒幕志士が池田屋に集まっている情報突き止め、沖田は他の隊員と共に踏み込んでいます。
この事件は京で評判が悪かった新撰組が一躍良い方向で有名になる事件でもありました。しかし沖田は途中体調不良により、戦線を離脱しています(一説によれば喀血)。
1865年 – 24歳「総長山南敬助の介錯を務めた」
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近藤や土方との意見の相違から、総長の山南敬助が脱走すると土方に命じられて追っ手として近江草津で捕えています。山南は沖田の介錯で切腹しました。
沖田は山南を兄のように慕っていたといいますが、故郷の手紙には山南の死を軽く触れる程度だったといわれています。
1867年 – 26歳「病気が悪化し療養に入る」
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1867年には、病気が悪化のため第一線を退き療養生活に入っています。近藤の妾宅で療養していたところ、元御陵衛士が襲撃してきますが、沖田は伏見奉行所にいたために難を逃れています。この頃近藤も狙撃されており、その時は永倉新八が1,2番隊を沖田の代わりに出動させており、この頃には病状が任務に就けない程悪化していたことがわかります。
鳥羽・伏見の戦いは参加できずに大阪に護送されています(ただし鳥羽・伏見の戦いに参加した際に負傷し、護送の途中で肺結核を患ったという説もあり)。鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、甲陽鎮撫隊に参加するも結核が悪化し、中途で離脱しています。
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1868年 – 27歳「千駄ヶ谷で肺結核により死去」
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沖田は江戸にもどったときは末期の肺結核でしたが、姉夫婦は庄内藩が出羽国庄内に戻るのについて江戸を離れてしまいます。そのため幕府の医師・松本良順の手配で、千駄ヶ谷の植木屋で養生していました。
江戸で療養時、甲陽鎮撫隊が出発するときに近藤が沖田を見舞っています。この時にいつも明るく強気な沖田が声を上げて泣いたそうです。この後近藤は死去しますが沖田に知らせぬよう強く周囲は口止めされていたために、近藤の死を知らずに死ぬ間際まで、
「先生はどうされたんでしょうね、お便りは来ませんか?」
と近藤を気遣う言葉をずっとかけていたといいます。また土方も蝦夷地に出発の時に、沖田を見舞いその時やり取りした歌が、沖田の辞世の句となりました。
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沖田は結局近藤の死を知ることなく、近藤の死の2か月後に家族に看取られることもなく、一人で静かに息を引き取りました。享年27歳だったとも、25歳、24歳という説があります。墓所は専称寺にあります。
沖田総司のことを詳しく知れてよかったです。あと、ひとつ疑問なんですけど、新せん組の、「せん」は、「選」か「撰」どっちですか。❓