沖田総司とはどんな人?愛刀や死因、子孫、イケメン説も紹介【年表付】

沖田総司と関りの深い人物

近藤勇

近藤勇
出典:Wikipedia

新撰組の局長で沖田が内弟子となった、天然理心流の同門だった人物です。沖田は近藤を兄のように慕い、近藤も沖田を弟のように可愛がったといわれています。近藤が新撰組の局長になると、沖田も一番隊組長として近藤に忠義を尽くしました。

沖田が病魔に侵され戦線離脱をした後も幕府側として戦いますが、ライフル銃など新兵器を操る新政府軍には全く歯が立たず押され気味となります。結局近藤は敗走しているところを捕まり、板橋で斬首されました。

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土方歳三

土方歳三
出典:Wikipedia

新撰組の「鬼の副長」と呼ばれた人物です。沖田とは多くの事件で共に出動していた記録と共に、非番の時は沖田と囲碁を嗜んでいたとも伝えられています。また闘病中だった沖田の元を、蝦夷地(北海道)に向かう前に土方はお見舞いにも訪れています。

沖田が死去したころ土方は函館の五稜郭を占拠。「蝦夷共和国」の幹部となっていました。しかし翌年の1869年には新政府軍と函館攻撃が開始となり、土方は馬上で指揮を執っていましたが腹部を被弾し絶命しました。

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山南敬助

堺雅人が演じる山南敬助
出典:アイドルは人数よりも歴史が大事だ!

新撰組の総長で、沖田も兄のように慕っていたといいます。非常に温厚な性格のため、芹沢局長とは違い、壬生界隈の人にも評判が良かったという人物でした。近藤らと新撰組を結成し、総長を務めるものの駐屯移転問題で近藤・土方と対立。

結局山南が書置きを残して姿を消した際に、土方に命を受けた沖田が追跡することとなり捕獲。最終的に脱走という法度違反により切腹しています。その時の介錯が山南の希望で沖田が務めました。

沖田総司の名言

刀で斬らずに身体で斬れという言葉に本物の抜刀術の重みを感じずにはいられない

「刀で斬るな!身体で斬れ!」

沖田が稽古の時に教えていたといわれています。沖田の稽古は厳しかったらしく、荒っぽくてすぐ怒るといわれていました。師の近藤よりも恐れられていたそうです。

沖田の晩年の悲しいエピソードとしてよく知られる逸話だ

「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」

療養する植木屋に現れる黒猫を斬ろうとして失敗し、付き添いの老婆に己の衰えの悲しみを伝えた言葉といわれています。後世の創作の可能性が高いといわれていますが、当時黒猫を飼えば結核が治るという迷信があったために、実際周りに猫がいた可能性はあるそうです。

ロマンチックな作風に体育会系な沖田の辞世の句らしくないとの指摘もあるという

「動かねば 闇にへだつや 花と水」

沖田の辞世の句といわれるものです。土方が見舞いに来てくれた時に詠んだ歌といわれています。花は沖田自身のことで、水は土方のことを指していると解釈されています。「戦わなければ、土方さんと離れ離れになってしまう」という心でしょうか。ただし近年は沖田の句ではないという説が主流となってきている歌でもあります。

沖田総司の人物相関図

新撰組の組織図
出典:宝塚歌劇団ホームページ

沖田総司にまつわる逸話

逸話1「沖田総司の写真が出たとネットで話題に?」

沖田総司の写真として出回っている写真
出典:JapaneseClass.jp

結論から言うと沖田総司の写真は残っていませんが、最近沖田の写真といわれるものが出回っています。しかしこの写真は沖田総司の写真ではないそうです、何でも雑誌のムーで活躍しているイラストレーターが描いた沖田のイメージ像といわれています。しかも写真ではなくイラストだそうです。

ちなみに沖田の姉みつの話によると、次姉きんの文机の引き出しに総司の写真が入っていたそうです。それを聞いた新撰組関係者がすぐにきんの文机を調べますが、写真は出てこなかったといいます。一説によるときんの家が建て替えられたと時に粗大ごみと一緒に燃やされたのではないかといわれているそうです。

逸話2「沖田総司に実は子供がいた!?」

京都光緑寺にある「沖田氏縁者」の墓
出典:新撰組データベース

壬生光縁寺の過去帳に「沖田氏縁者」と記された人物がおり、沖田の内縁の妻ではないかといわれているそうです。お墓の施工主は酒井意誠という人物がしていることがわかっています。意誠の父、酒井意章は切腹しないといけないところを沖田に助けてもらって恩義を感じていた人物といわれているそうです。

「沖田氏縁者」の人は、一説に新撰組医療所の浜崎の助手をしている石井秩という未亡人で、連れ子にユキという娘がいる人でしたが、沖田はこの女性との間に子キョウをもうけたという話があるそうです。

沖田氏縁者の墓がある京都光緑寺
出典:隠居音屋KKの「御城印・武将印・御朱印探訪」

その後沖田が結核で死去した後、石井秩も同じく肺結核で死去。連れ子ユキとキョウは浜崎家で育てられ、後に沖田氏縁者の酒井意章が二人を引き取りました。その後二人は結婚し、ユキは酒井意章の息子意誠と結婚し、夫は墓の施工主となりました。キョウの方も奈良の磯田家に嫁ぎ、子供は総司にちなんで「貞司」と名づけたといわれています。

これは昭和54年に研究家の川西正隆氏が発表していますが、定説とはなっていません。しかし嫁いだ家の名前がわかっているので、今後DNA鑑定などで新しいことがわかる日が来るのかもしれませんね。

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1 COMMENT

沖田総司のことを詳しく知れてよかったです。あと、ひとつ疑問なんですけど、新せん組の、「せん」は、「選」か「撰」どっちですか。❓

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