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新撰組の生き残り8人を紹介!残された家族の様子や子孫の有無も解説

「新撰組って生き残った人はいるの?」
「新撰組の生き残り、永倉新八や斎藤一のその後は?」
「新撰組の家族はどうなったのか?」

江戸時代末期、日本国内は幕府VS朝廷の対立が起きていました。混乱の中で、京都では反幕府活動を行う浪士たちを取り締まり、街の治安を守るために「新撰組」が発足しました。

幕末を戦った新撰組
出典元:歴史プラス

今で言う警察組織であった「新撰組」は尊皇攘夷思想を掲げ、局長である近藤勇、副長である土方歳三を筆頭として活躍しました。不平浪士たちを討った池田屋事件は、あまりにも有名です。

しかし幕府を守るための尽力も虚しく、1867年に時の征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還したことによって、政権は朝廷へと返されることになりました。

翌年の1868年に、新政府と旧幕府の戦いである「鳥羽・伏見の戦い」をはじめ、「戊辰戦争」が勃発。新撰組は多くの隊士を失います。

そして近藤勇土方歳三の死によって、新撰組は消滅しました。しかし、新撰組には生き残りが複数いました。彼らは明治の世を、どのようにして生きたのでしょうか?また、残された家族はどのような人生を送ったのでしょうか?

今回は、勇敢な新撰組隊士たちのみならず、家族や子孫にも触れながらご紹介します。

新選組の生き残りはいたの?

新撰組の生き残りとは

新撰組は、幕末に多くの隊士を失いましたが、実は複数名の生き残りがいました。戊辰戦争によって苦戦を強いられる中「甲州勝沼の戦い」でも新政府軍に敗戦しますが、逃亡した者や投降した者もおり、彼らは謹慎後に開放されて自由の身となったのです。

局長近藤勇は戊辰戦争中に捕縛され、その後斬首刑が執行されました。また副長である土方歳三は、箱館戦争で戦死しています。

土方歳三がいなくなったことで新撰組は事実上の消滅を迎えたので、「新撰組の生き残りはいない」というイメージがあるのかもしれません。

しかし生き残った隊士は存在し、彼らは皆全国へと散らばり、各々明治の時代を生き抜いたのです。

新撰組の生き残り8人を紹介

前列中央が晩年の永倉新八
出典元:Wikipedia

新撰組の生き残りは、複数人いたとされています。しかし新撰組の中で幹部クラスだった者たちは、ほとんどが戦場に散っていきました。

そんな中でも、永倉新八と斎藤一は幹部クラスの中で生き残った数少ない隊士でした。彼らを含めた印象深い人物を、8名ご紹介します。

島田魁

島田魁の肖像
出典元:歴史もの

島田魁は、身長180cmで体重が150キロを超える大男だったとされています。1863年頃に永倉新八の誘いを受けて新撰組に入隊しました。

鳥羽・伏見の戦いがはじまると、永倉新八とともに抜刀隊として参戦。永倉新八が近藤勇のもとを去った後も新撰組として残り、戊辰戦争を最後まで戦い抜きます。

戦争が終わると、約1年間の謹慎処分となりました。謹慎が解けると京都で剣術道場を開いたり、西本願寺の警備員の職にも就きました。しかし1900年、西本願寺の巡回中に持病の喘息発作を起こし73歳でこの世を去ってしまいます。

葬儀には北海道から永倉新八も参列しました。島田魁は新撰組の記録を多く残しており、中でも「島田魁日記」は有名で、現在でも新撰組の研究に貢献しています。

島田魁の子孫については詳細不明ですが、直系は途切れていないようです。

中島登

凛々しい姿ですね
出典元:Wikipedia

中島登は農家の生まれながら剣を学び、1864年に新撰組へ入隊しました。近藤勇から密命を受けるなどの活躍を見せ、戊辰戦争では土方歳三とともに北海道まで戦い抜きました。

島田魁らと新政府軍のもとへ投降すると、多摩で謹慎生活を送りますが、解放後は浜松へ移り住みました。商人をしながら余生を浜松で過ごし、1887年に50歳で亡くなっています。

中島登は人生で2度結婚しており、直系の子孫はお寺の住職をされているようです。

田村銀之助

14歳ごろの写真、幼いですね
出典元:日経経済新聞

田村銀之助は、1867年に兄の銀四郎とともに新撰組に入隊しています。入隊時の年齢は若干12歳、最年少の隊士でした。

若さゆえに戦闘要員ではなく、主に近藤勇ら隊士たちの世話係を担っていました。戊辰戦争では土方歳三について五稜郭まで進軍しますが、敗走が続きます。田村銀之助は少年でありながら、命を落とす覚悟まで決めていました。

しかし五稜郭が開城すると投降、明治維新後も生き続けることとなったのです。田村銀之助は、その後明治政府に仕え、陸軍下士官として西南戦争にも参加しています。

北海道の開拓にも赴き、大正以降は新撰組を後世に残すために活動を行いました。そして1856年に、69歳で亡くなっています。若き日の田村銀之助を写した写真は、2011年にお孫さんによって、北海道函館市の土方歳三函館記念館に寄贈されています。

市村鉄之助

市村鉄之助と土方歳三の繋がりは強いものでした
出典元:Wikipedia

市村鉄之助は、1987年に14歳で新撰組へ入隊し、戊辰戦争時には田村銀之助らとともに少年隊士として、土方歳三と進軍しました。しかし箱館での総攻撃直前、土方歳三から逃亡の命を受けます。

土方の遺品を預かり、市村鉄之助は戦線を離脱しました。その後敵軍の目を掻い潜りながら、土方歳三の遺品を、土方の親戚のもとへ届けています。遺品の中には土方歳三の肖像が含まれており、肖像が現存した功績を残しました。

明治維新後に西郷軍側として西南戦争に参加し、戦死したとされています。市村鉄之助の子孫については詳細が不明ですが、結婚歴がないため直系はいません。

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山村八十八

美男が多いですね
出典元:アメブロ

山村八十八は、島田魁と同時期である1863年に新撰組へ入隊します。容姿端麗で、隊中美男五人衆として有名な人物でした。

沖田総司が率いる一番隊に所属し、鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで参戦しましたが、箱館戦争が終わると隊を離脱。明治維新後は、1896年まで京都市内の学校に用務員として勤務しています。1910年に69歳で亡くなりましたが、池田屋事件から箱館戦争までを経験をしている数少ない生き残りでした。

美男ということで女性遊びがあったようですが、残念ながら子孫についての詳細は残っていません。

永倉新八

若き日の永倉新八
出典元:歴史もの

永倉新八は、新撰組の二番隊隊長を務め、剣の名手とも呼ばれた人物です。近藤勇とともに甲州勝沼の戦いまで奮闘しましたが、敗戦すると会津へ戻って戦おうと提言しました。

しかし近藤勇は「誰に意見をしているのか」と怒り、今後自分の意見を通すのなら賛同すると発言します。このことに永倉新八は落胆し、「あなたの家来になるつもりはない」と近藤勇と決別する道を選びました。

永倉新八は会津で戦いましたが、会津若松城が落城すると江戸へ戻りました。1872年に縁のあった松前藩の手助けのもと、北海道へ移住。藩医だった杉本氏の娘である米子と結婚し、婿養子に入りました。

永倉の名を捨て平穏な日々を過ごしていましたが、武士の誇りを忘れてしまった者たちを目の当たりにし、「生き残りとして、新撰組を残していきたい」と考えるようになります。そして単身東京へ戻り、1879年に近藤勇が処刑された板橋に、新撰組隊士たちの名を刻んだ供養塔を建てたのです。

その後は北海道初の刑務所「樺戸集治監」にて、囚人たちに剣術を教え、東京で道場も開きました。晩年は再び北海道へ戻りましたが、北海道大学の剣道場で指導を続けました。

1915年に77歳で亡くなるまでに新撰組を伝える活動を行い、「浪士文久報国記事」や回顧録「新撰組顚末記」を通して、本当の新撰組の姿を後世に残しています。永倉新八の墓は、新撰組供養塔の隣に並んで建っています。

永倉新八は妻米子との間に一男一女をもうけており、ひ孫である杉村重郎さんはアニメプロデューサーとして活躍しています。

斎藤一

子孫によって発見された、晩年の斎藤一の肖像
出典元:朝日新聞デジタル

斎藤一は、沖田総司や永倉新八と並ぶ剣の腕前と評判の隊士でした。三番隊隊長を務め、土方歳三からも信頼が厚く、土方が函館へ向かうと、残った新撰組の指揮をとり最後まで会津の地で戦いました。

しかし会津が敗戦すると新政府軍に投降。斎藤一は謹慎生活を強いられることになります。謹慎が解けると下北半島を経て五戸へ移住し、2度の結婚を経験しています。

1874年には明治政府の警視庁に従事し、1877年の西南戦争にも参加。傷を負いながらも大砲の奪取に成功するといった功績を残します。

生涯で国立科学博物館の守衛長や大学での剣術師範を経験し、教えた学生は一度も斎藤一の竹刀に触れることができなかっと言われています。

1915年、永倉新八と同じ年に亡くなり、墓は愛した会津に建てられました。斎藤一は3人の子に恵まれ、今も直系の子孫の方がいらっしゃいます。

池田七三郎

剣士の威厳が垣間見えます
出典元:アメブロ

池田七三郎は、1849年に千葉県で生まれ、1867年に新撰組へ入隊します。大政奉還が同じ年なので、入隊時期は新撰組の晩期になります。

鳥羽伏見を経て甲州勝沼の戦いに参加しますが、重症を負って一時離脱。回復すると戦場に復帰しますが、奮闘も虚しく会津で斎藤一らと降伏しました。

謹慎を経て商人として働き、晩年には取材も受けています。1938年、昭和13年までの長寿を全うし、90歳でこの世を去りました。池田七三郎の死によって、新撰組の生き残りは全員がいなくなったのです。

池田七三郎の直系の子孫も、「池田姓」を引き継いでいらっしゃるようです。

残された家族のその後は?

残された家族の人生

戦死した隊士たちには残された家族がいました。新撰組という職を背負い亡くなった隊士たちの家族は、明治の世をどのように生きたのでしょうか?妻と兄弟の視点からご紹介します。

近藤勇の妻は独身を貫いた

近藤勇の妻、松井つね
出典元:Wikipedia

近藤勇は新撰組が発足する以前に、松井つねという女性と結婚していました。モテ男だった近藤勇とはお見合い結婚でしたが、結婚後3年して娘が誕生しています。

しかし、娘が生まれた翌年、近藤勇は新撰組発足のために京都へ行ってしまいます。戊辰戦争によって近藤勇は捕縛の末に処刑され、つねは未亡人となりました。

夫の死後、周囲に再婚を促されましたが、「二夫には仕えません」と言い拒みました。その後娘は25歳で早世し、娘の夫の家で世話になります。しかし後妻との折り合いも悪く、不運なまま56歳で亡くなっています。

近藤勇、とても美男です
出典元:将軍Web

近藤勇が「醜女は夫に尽くす」という理由でつねとの結婚を決めたという説があります。しかし短い結婚生活の中で娘が誕生し、最後の別れの際に、近藤がつねに指輪を手渡したという話を聞けば、違った感想を抱いてしまいますね。

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沖田総司の姉は、明治に満州へ

沖田総司の姉、みつ
出典元:Wikipedia

沖田みつは、沖田総司の10歳年上の姉です。両親は沖田総司が幼い頃に亡くなっており、みつが母親代わりとなって、弟を支えました。

しかしみつは13歳で結婚、沖田総司は10歳で試衛館に入門するために家を出ています。戊辰戦争勃発後に沖田総司は結核のために家へ戻りますが、一時みつは看病した後、家族で山形県へ引っ越してしまいました。

沖田総司はその後亡くなり、みつは夫の死後、1883年に息子を頼って満州に渡り、その地で75年の生涯を終えました。

新撰組の家族が満州とは、驚きです。

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新撰組生き残りに関するまとめ

新撰組は、有名な近藤勇や土方歳三の死によって、あまり生き残った隊士にスポットが当たることがありません。しかし幕末の動乱期、激しい戦争を経験して生き残った隊士たちは、強いパワーを持ってその後の人生を歩んだのです。

そして新撰組の生き残りとして、自らの経験を語り継ぎ、現代に残しています。斎藤一のひ孫である方は、幼い頃より祖父から曾祖母の話を聞いていたそうです。

誇り高い武士の信念は、現在も受け継がれています。

今回の記事を通して、新撰組の表の顔だけでなく、明治以降を強く生き抜いた隊士たちの苦労を、知るきっかけにもなれば幸いです。

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