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足利義満とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、家系図も紹介】

足利義満は僅か10歳で征夷大将軍に任命された室町幕府の第3代将軍です。当時は南北朝時代の動乱も収まらず室町幕府の基盤も弱い時代でしたが、義満は幕府の権威向上に努め室町幕府繁栄の礎を築きました。室町幕府は1467年の応仁の乱まで比較的安定していましたが、それは義満のおかげです。

足利義満
出典:Wikipedia

ただ義満の功績や人物像について聞かれても、分からない人も多いのではないでしょうか。義満は政治面で抜群の功績を残しただけではありません。金閣寺の創設や北山文化の発展など、芸術面でも多大なる貢献を残しました。

今回はそんな足利義満の濃密で波乱万丈な生涯を解説していきます。

足利義満とはどんな人物か

名前足利義満
誕生日正平13年/延文3年(1358年)
8月22日
没日応永15年(1408年)5月6日
生地伊勢貞継入道照禅の屋敷
(現・京都市)
没地鹿苑寺(金閣寺)(現・京都市)
配偶者 正室・日野業子、継室・日野康子
埋葬場所相国寺塔頭鹿苑院(現在は消失)

足利義満の生涯をハイライト

月岡芳年による足利義満
出典:Wikipedia
  • 1358年 足利義満誕生
  • 1369年 将軍となる 幕政は管領・細川頼之などが対応
  • 1378年 邸宅を花の御所に移す
  • 1379年 「康暦の政変」で細川頼之が失脚
  • 1383年 武家として初めて源氏長者となる
  • 1389年 「土岐康行の乱」で土岐氏を討伐
  • 1391年 「明徳の乱」で山名氏を征伐
  • 1392年「明徳の和約」で南北朝の争いを終わらせる
  • 1395年 太政大臣となる 自身は隠居
  • 1397年 鹿苑寺(金閣寺)を建立
  • 1399年 「応永の乱」で大友氏を討伐
  • 1401年 勘合貿易を始める
  • 1408年 死去

聞き慣れない単語がたくさんあると思いますが、後ほど詳しく解説していきます。

10歳で征夷大将軍に就任し、室町幕府の隆盛を築く

室町幕府の組織機構
出典:Wikipedia

義満が征夷大将軍の宣下を受けて、3代将軍に就任したのは1369年。義満はまだ10歳で政務は管領・細川頼之等が担います。室町幕府は足利氏の基盤が弱く、争いも頻発していました。

1379年には幕府直属の常備軍「奉公衆」、実務官僚の「奉行衆」を整備。武力を背景に幕府の驚異になる大名を次々と駆逐し、1399年には義満に対抗できる勢力はいなくなります。更に「明徳の和約」で南北朝時代に起きた朝廷の分裂を収束させました。

義満は武家だけでなく、公家や仏教の世界にも積極的に介入します。義満は仏教で「臨済宗」を推す事を公言し、臨済宗のお寺の格付けを実施。足利氏に所縁のあるお寺を上位に位置づけ、宗教権威と足利氏の同一化を図りました。

更に義満は1378年に右近衛大将という役職に任ぜられ、公家社会にも積極的に介入。義満は武力や宗教権威をバックに昇進を重ね、1394年には朝廷の長である太政大臣に就任します。武士で太政大臣に就任するのは平清盛以来230年ぶりです。

義満は1400年頃には武士・朝廷・宗教のトップに君臨。ここまで権力を集約させたのは日本史上、義満だけでしょう。

金閣寺を建立し、北山文化を発展させる

金閣寺(鹿苑寺)
出典:Wikipedia

義満は1399年に金閣寺を建立します。金閣寺とその一帯は当初は北山殿、金閣寺は舎利殿と呼ばれていました。義満の死後、舎利殿は鹿苑寺という禅宗寺院に変わります。色んな名称がありますが、現在は金閣寺という呼び方が一般的です。

1394年に義満は息子(義持)に将軍職を譲るものの、この地で政治の実権を掌握。舎利殿は豪華絢爛で金箔が塗られ、建設には600億円の費用がかかりました。北山殿(金閣寺)は武家社会と公家社会、中国等の大陸文化を融合させたものでした。

北山文化では臨済宗が発展し、相国寺や安国寺等のお寺が栄えます。更に相国寺の僧侶・如拙や周文らが「禅の世界を表現する水墨画」を大成させました。中国の文化も研究され、漢詩文の創作も行われています。

能楽もこの頃に発展しますが、これも義満が能楽のパトロンになっていたからです。この時代に花開いた文化は総じて義満が庇護や支持したものでした。北山文化には義満の意向が色濃く反映されています。

勘合貿易を行い、自らを「日本国王」と名乗る

日明貿易の船旗
出典:Wikipedia

義満は1404年から明(中国大陸の歴代王朝)と貿易を始めます。貿易は「幕府が正式な船である事」を証明する為の勘合(証紙)が使われた為、勘合貿易とも呼ばれます。授業では勘合貿易と習いますが、日明貿易と呼ぶのが正しいとされます。

日明貿易を経て日本は明の上質な生糸や織物、書物などを入手。明のお金である永楽通宝も国内に流通し、江戸時代初期まで日本の貨幣の役割を担いました。義満が明と貿易を行ったのは、義満が幼い頃から明に強い憧れを抱いていたからです。

明の皇帝である永楽帝
出典:Wikipedia

日明貿易は「明の皇帝に周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は返礼品をもたせて帰国させる」という朝貢という形式で行われます。日本は「天皇が中国の傘下になる事」を拒否し、848年の遣使の廃止以降、正式な貿易は行われていません。

義満は1374年の頃から明との正式な通交を望んでいましたが、交渉は失敗。義満の努力が身を結ぶのは1401年に明に使者を遣わした時でした。義満は貿易の際に自らを「日本国王」と名乗っています。

国王と名乗った理由は諸説あります。当時の義満は出家し、天皇の臣下ではありませんでした。天皇が明の傘下になるのではなく、義満が国王として傘下になる事で、天皇の格を落とさないようにしたとも言われていますね。

野心家で破天荒な性格だった

足利家の家紋
出典:Wikipedia

今までの解説を読んで分かる通り、義満は絶大な権威を持っていました。日本において武家、朝廷、仏教の分野でトップに君臨したのは義満だけです。義満が頭脳明晰な策謀家だった事は明白ですが、それ以上に野心家だった事は間違いないでしょう。

金閣寺にも彼の性格が現れています。金閣寺は3階建てで、各階は異なる建築様式が用いられました。1階は公家の邸宅をイメージした寝殿造り、2階は武家様式、3階は明の禅宗様式を採用しています。更に1階は金箔の装飾はありません。

義満は明の皇帝を慕い、日明貿易の中で自分を日本国王と評しました。金閣寺には公家<武士<自分(と中国)という序列が再現されており、義満の野心と権威欲が凝縮されているのです。

更に義満の権威にあやかろうと、有力者が正妻や妾を差し出しています。義満の女性関係は幅広く、当時の天皇・後円融天皇の正妻とも密通する等、破天荒な事もしています。これも権力者が成せる事なのかもしれません。

足利義満の功績

功績1「有力大名を次々と滅ぼす」

土岐氏の最盛期を築いた土岐頼康
出典:Wikipedia

義満が将軍した時、幕府における足利将軍家の力は貧弱でした。義満は有力大名を次々と滅ぼしていきますが、その作戦は鮮やかでした。それは「相手を弱体化させて挑発し、相手が蜂起したところを制圧する」というものです。

1389年の「土岐康行の乱」で義満は頼康死去後の土岐氏の家督争いに介入。康行に「康行の領地を従兄弟の満貞へ明け渡す」等の挑発を繰り返します。康行が満貞から領地を奪い返そうと実力行使に出た所で、義満は康行を討伐したのです。

義満は懲罰として康行の領地を没収。数年後には満貞に難癖をつけて、その領地も没収します。土岐一族は、義満により内輪揉めとなり、領地を分断されて弱体化。最終的に一人勝ちしたのは義満でした。

その後も義満は山名氏にも似た手段を展開。「家督争いに介入→内輪揉めを起こさせる→相手の勢力を分断させる→最終的に領地を没収する」という方法で1391年山名氏を失脚させます(明徳の乱)。

土岐氏も山名氏も義満が正攻法で攻めても勝てる相手ではありません。義満は一休さんのとんちのように、策を巡らせて有力大名を滅ぼしていったのです。

功績2「南北朝の動乱を終わらせる」

南北朝時代の発端を作った後醍醐天皇
出典:Wikipedia

義満は1392年に60年以上も続いた南北朝の動乱を終わらせます。いわゆる明徳の和約です。まず南北朝時代の争いについて詳しく学びたい人は、こちらをチェックしましょう。

【年表付】南北朝時代とは?歴代天皇や武将、文化も分かりやすく解説

当時の北朝は室町幕府の傀儡だった為、義満は北朝側の人間として南朝と交渉を開始。この頃には南朝の勢力は衰退しており、義満の意見に反対する力はありませんでした。結果的に以下の条件で南朝と北朝は同意します。

  • 南朝は正式な儀式を経て、北朝に三種の神器を渡す事
  • 今後は南朝と北朝が交代に天皇即位する事
  • 皇室の所領は、一定のルールに基づいて分ける事

三種の神器とは天皇が皇位を継承する為に必要なもの。当時、三種の神器は南朝が保有しており、北朝は「南朝が過去の正当性を認める事」になりました。一応、南朝の面子を保ちつつ、両者は合意したのです。

ちなみに義満は弱体化した南朝の為に約束を守るつもりは全くありませんでした。南朝は正式な儀式を経ずに三種の神器を奪われ、南朝の人物が天皇になる事もありませんでした。「合意させればこっちのもの」だったわけですね。

功績3「能楽を支援し、能楽の発展に貢献する」

現在にも伝わる能楽
出典:Wikipedia

義満は、能楽の発展にも貢献しました。能楽とは室町時代から発展した歌舞演劇。皆さんも能面をつけて演じる姿を見た事があるでしょう。能楽は奈良時代に中国から伝わった散楽が起源となり、平安時代には猿楽と呼ばれていました。義満は猿楽の大ファンでした。

義満が猿楽に入れ込むのは1375年。京都の新熊野神社で観阿弥の猿能楽を見物した時です。当時は猿楽よりも「豊作を願い踊った舞から発達した田楽」が人気でした。観阿弥は猿楽に田楽の要素を加えた能を生み出しており、斬新なものでした。

義満は観阿弥の能楽に魅了され、猿楽の役者を支援。観世一座は幕府のお抱え的として、京都を中心に活躍しました。観阿弥には世阿弥という息子がおり、義満は彼の美男子ぶりに息を呑みます。当時の世阿弥は12歳で、義満は17歳でした。

猿楽者の社会的地位は低かったものの、義満は世阿弥の為に様々な教養を身につけさせます。世阿弥は父が整えた猿楽を更に大成させました。今でも能楽では世阿弥の作った作品が上演され、高い評価を受けています。それは義満のおかげですね。

足利義満の名言

源氏の代表的な家紋である笹竜胆
出典:Wikipedia

たのむかな 我がみなもとの 石清水 ながれの末を 神にまかせて

義満が詠んだ和歌です。意味は「我が一族の大元を成す源氏の氏神である石清水の社に、神の意のままに任せて祈る事だよ」となります。義満は公家の一員として、和歌にも優れていました。

今回の和歌だけでなく、義満の詠んだ和歌は「新後拾遺和歌集」に収録されています。

足利義満の家系図・人物相関図

こちらは足利将軍家の家系図になります。義満の祖父は初代将軍の足利尊氏、父は二代将軍の義詮です。義満の跡を継いで四代将軍に就任したのは、義満の嫡男(長男ではありません)である義持でした。

五代将軍は義持の息子であり、義満の孫にあたる義量ですが1425年に17歳で死去。その後は義持が将軍代行を務めるものの、義持も1428年に死去します。義持は将軍候補者である自分の兄弟に「くじ引きで次期将軍を決める事」を遺言しています。

結果的に六代将軍になったのは足利義教で、義持同様に義満の息子です。義教は「万人恐怖」と呼ばれる程の熾烈な政治をして幕府の権威を高めるものの、1441年に嘉吉の乱で暗殺されます。

その後は義教の息子の義勝が七代将軍、義政が八代将軍に就任します。義政の時代に応仁の乱が起こり、幕府の権威は失墜。その後も十五代将軍の足利義昭の代まで室町幕府は存続するものの、戦国時代を経て将軍の地位は徐々に弱体化していきました。

下の記事では室町幕府の将軍を一覧で紹介しているので、良ければ参考にしてください。

室町幕府の将軍を一覧で紹介!系図や補佐、覚え方も紹介
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