足利義満とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、家系図も紹介】

足利義満の生涯年表

1358〜1361年 – 0〜3歳「足利義満誕生」

義満の父で2代目将軍の足利義詮
出典:Wikipedia

足利義満誕生

足利義満は正平13年/延文3年(1358年)8月22日に、2代将軍である足利義詮の息子として誕生。祖父であり足利尊氏の死去からちょうど100日目の事でした。

義満の生まれた頃は南北朝時代の動乱がくすぶっており、父親の義詮は対応に追われています。南北朝時代とは朝廷が北朝と南朝に分かれていた時代であり、日本史的にもかなり特殊です。

室町幕府は北朝を支持していたものの、南朝には幕府の勢力争いに敗れた有力武将が次々と加担。南朝は幕府の裏切り者の温床になる事で、幕府をたびたび困らせてきました。

京都から追い出される義満

1361年には南朝勢力の勢力が室町幕府の本拠地の京都を占領する事件が起きます。義詮は義満を、信頼する家臣・赤松則祐のいる播磨の白旗城へと避難させています。この頃の義満は時代に翻弄される存在でした。

1361〜1367年 – 3〜10歳「将軍となる」

細川頼之
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京都に帰還

翌年に幕府が京都を奪還した為、義満も播磨から帰京を果たします。幼少期の「景色を持って帰れ」と言った有名なエピソードは、この帰京の時の出来事でした。

将軍となる

1367年12月に義詮が死去し、義満は僅か10歳で将軍となります。死の間際に義詮は管領(将軍に次ぐ最高の役職)の細川頼之に義満の指導と後見を委ねたのです。翌年に義満は元服を果たしました。

細川頼之は義詮が見込んだ通り優秀な人物でした。義満に帝王学を指導しつつ、土地支配や宗教統制を強化。室町幕府の権力固めを行います。更に南朝勢力の強い九州に今川了俊・大内義弘を派遣。南朝の力を削ぎ落としていきました。

1368〜1378年 – 11〜21歳「将軍の資質を磨く」

かつて足利家の邸宅のあった三条坊門付近
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和歌などにも嗜む

義満は朝廷に影響力を持っていた日野家の娘、日野業子と1375年に結婚。業子は和歌に優れており、義満が気に入ったとされます。

義満は文化的な素養も磨いていました。義満が後円融天皇に奏上する形で、勅撰和歌集である「新後拾遺和歌集」が作られる事になります。勅撰和歌集とは天皇の命令で作られた和歌集です。この中には義満の作品も収録されています。

花の御所

花の御所
出典:Wikipedia

1378年に義満は足利家の新たな邸宅の造営を開始。邸宅は「花の御所」と呼ばれ、邸宅だけでなく幕府の主要な機関になりました。花の御所は「室町通」に面して正門が設けられた為、足利家による武家政権を「室町幕府」と呼ぶようになりました。

花の御所があった場所は北朝の上皇・崇光上皇の邸宅がありましたが、火事で焼失しています。この地に義満が邸宅を建てたのは、北朝に対する政治的圧力がありました。実権は頼之が握りつつ、義満も少しずつ将軍として台頭し始めたのです。

1379年 – 22歳「康暦の政変」

斯波義将
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康暦の政変

1378年まで政治の実権は細川頼之が握っていましたが、幕府内には土岐氏や山名氏、斯波氏などの有力大名もいました。翌年には頼之派と反頼之派の武将の対立が表面化していきます。

4月に斯波義将ら反頼之派は軍勢を率いて花の御所に住む義満を包囲し、頼之の罷免を迫りました。これを「康暦の政変」と言います。義満は頼之を罷免し、頼之は出家。新たな管領は斯波義将となり、幕府の人材は斯波派に塗り替えられました。

康暦の政変の意義

頼之が建立した地蔵院
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ちなみに「康暦の政変」は義満が斯波氏に屈したものではなく、義満の作戦というのが有力です。20歳になった義満は頼之からの自立を望み、反頼之派と共に一連の政変を断行したのです。

細かい経緯は省きますが、頼之派と反頼之派が対立するようにしむけたのは義満でした。義満の頼之への信頼は強く、頼之は後に赦免されています。そして10年後には幕政に復帰。義満は双方の対立を利用して、大名の弱体化を図ったのです。

1380〜1382年 – 23〜25歳「幕藩体制の強化」

二条良基
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奉公衆と奉行衆

義満は康暦の政変を経て、将軍としての立場を確立します。ただこの時点では斯波氏や山名氏、土岐氏などの大名が幕府で強い権限を持っていました。更に九州に派遣された大友氏も無視できません。

義満は幕藩体制の強化の為に、将軍直属の常備軍である「奉公衆」を設けます。更に幕府に元から存在した官僚組織である「奉行衆」の再整備も図りました。

当時の京都は朝廷と幕府の権威が混在し、行政権や課税権も曖昧でした。義満はこれらの権利を幕府に集約させていきます。

公家よりも公家らしくある

義満は幕藩体制の強化だけでなく、公家社会にも影響を与えます。義満は1378年に右近衛大将という朝廷の要職に就任。二条良基という朝廷の長老の手ほどきを受けながら、下手な公家よりも公家の教養を身につけていくのです。

義満は公家社会の一員として、様々な朝廷行事に出席。将軍という立場もあり、義満の官位はどんどん上がっていきました。

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