足利義満とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、家系図も紹介】

足利義満の功績

功績1「有力大名を次々と滅ぼす」

土岐氏の最盛期を築いた土岐頼康
出典:Wikipedia

義満が将軍した時、幕府における足利将軍家の力は貧弱でした。義満は有力大名を次々と滅ぼしていきますが、その作戦は鮮やかでした。それは「相手を弱体化させて挑発し、相手が蜂起したところを制圧する」というものです。

1389年の「土岐康行の乱」で義満は頼康死去後の土岐氏の家督争いに介入。康行に「康行の領地を従兄弟の満貞へ明け渡す」等の挑発を繰り返します。康行が満貞から領地を奪い返そうと実力行使に出た所で、義満は康行を討伐したのです。

義満は懲罰として康行の領地を没収。数年後には満貞に難癖をつけて、その領地も没収します。土岐一族は、義満により内輪揉めとなり、領地を分断されて弱体化。最終的に一人勝ちしたのは義満でした。

その後も義満は山名氏にも似た手段を展開。「家督争いに介入→内輪揉めを起こさせる→相手の勢力を分断させる→最終的に領地を没収する」という方法で1391年山名氏を失脚させます(明徳の乱)。

土岐氏も山名氏も義満が正攻法で攻めても勝てる相手ではありません。義満は一休さんのとんちのように、策を巡らせて有力大名を滅ぼしていったのです。

功績2「南北朝の動乱を終わらせる」

南北朝時代の発端を作った後醍醐天皇
出典:Wikipedia

義満は1392年に60年以上も続いた南北朝の動乱を終わらせます。いわゆる明徳の和約です。まず南北朝時代の争いについて詳しく学びたい人は、こちらをチェックしましょう。

【年表付】南北朝時代とは?歴代天皇や武将、文化も分かりやすく解説

当時の北朝は室町幕府の傀儡だった為、義満は北朝側の人間として南朝と交渉を開始。この頃には南朝の勢力は衰退しており、義満の意見に反対する力はありませんでした。結果的に以下の条件で南朝と北朝は同意します。

  • 南朝は正式な儀式を経て、北朝に三種の神器を渡す事
  • 今後は南朝と北朝が交代に天皇即位する事
  • 皇室の所領は、一定のルールに基づいて分ける事

三種の神器とは天皇が皇位を継承する為に必要なもの。当時、三種の神器は南朝が保有しており、北朝は「南朝が過去の正当性を認める事」になりました。一応、南朝の面子を保ちつつ、両者は合意したのです。

ちなみに義満は弱体化した南朝の為に約束を守るつもりは全くありませんでした。南朝は正式な儀式を経ずに三種の神器を奪われ、南朝の人物が天皇になる事もありませんでした。「合意させればこっちのもの」だったわけですね。

功績3「能楽を支援し、能楽の発展に貢献する」

現在にも伝わる能楽
出典:Wikipedia

義満は、能楽の発展にも貢献しました。能楽とは室町時代から発展した歌舞演劇。皆さんも能面をつけて演じる姿を見た事があるでしょう。能楽は奈良時代に中国から伝わった散楽が起源となり、平安時代には猿楽と呼ばれていました。義満は猿楽の大ファンでした。

義満が猿楽に入れ込むのは1375年。京都の新熊野神社で観阿弥の猿能楽を見物した時です。当時は猿楽よりも「豊作を願い踊った舞から発達した田楽」が人気でした。観阿弥は猿楽に田楽の要素を加えた能を生み出しており、斬新なものでした。

義満は観阿弥の能楽に魅了され、猿楽の役者を支援。観世一座は幕府のお抱え的として、京都を中心に活躍しました。観阿弥には世阿弥という息子がおり、義満は彼の美男子ぶりに息を呑みます。当時の世阿弥は12歳で、義満は17歳でした。

猿楽者の社会的地位は低かったものの、義満は世阿弥の為に様々な教養を身につけさせます。世阿弥は父が整えた猿楽を更に大成させました。今でも能楽では世阿弥の作った作品が上演され、高い評価を受けています。それは義満のおかげですね。

足利義満の名言

源氏の代表的な家紋である笹竜胆
出典:Wikipedia

たのむかな 我がみなもとの 石清水 ながれの末を 神にまかせて

義満が詠んだ和歌です。意味は「我が一族の大元を成す源氏の氏神である石清水の社に、神の意のままに任せて祈る事だよ」となります。義満は公家の一員として、和歌にも優れていました。

今回の和歌だけでなく、義満の詠んだ和歌は「新後拾遺和歌集」に収録されています。

足利義満の家系図・人物相関図

こちらは足利将軍家の家系図になります。義満の祖父は初代将軍の足利尊氏、父は二代将軍の義詮です。義満の跡を継いで四代将軍に就任したのは、義満の嫡男(長男ではありません)である義持でした。

五代将軍は義持の息子であり、義満の孫にあたる義量ですが1425年に17歳で死去。その後は義持が将軍代行を務めるものの、義持も1428年に死去します。義持は将軍候補者である自分の兄弟に「くじ引きで次期将軍を決める事」を遺言しています。

結果的に六代将軍になったのは足利義教で、義持同様に義満の息子です。義教は「万人恐怖」と呼ばれる程の熾烈な政治をして幕府の権威を高めるものの、1441年に嘉吉の乱で暗殺されます。

その後は義教の息子の義勝が七代将軍、義政が八代将軍に就任します。義政の時代に応仁の乱が起こり、幕府の権威は失墜。その後も十五代将軍の足利義昭の代まで室町幕府は存続するものの、戦国時代を経て将軍の地位は徐々に弱体化していきました。

下の記事では室町幕府の将軍を一覧で紹介しているので、良ければ参考にしてください。

室町幕府の将軍を一覧で紹介!系図や補佐、覚え方も紹介

足利義満にまつわるエピソード

エピソード1「幼少期から大物だった」

播磨国の位置
出典:Wikipedia

スケールの大きな義満ですが、その片鱗は幼少期から既に現れていました。義満が生まれた頃はまだ南北朝の戦いは続いており、義満は室町幕府の本拠地である京都ではなく、播磨(現・兵庫県)で養育されています。

やがて戦いが追いついて帰京する際、義満は道中にある「摂津」という場所の景色を大変気に入りました。そこで義満は家臣達に「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と言ったのです。

幼少期とはいえ「景色を持って帰る」という発想はなかなかありません。家臣達は義満のスケールの大きさと大物具合に驚いたのでした。義満が幼少期から大物だった事が良く分かりますね。

エピソード2「4代将軍義持とは不仲だった」

足利義持
出典:Wikipedia

義満は1394年に嫡男・義持に将軍職を譲り隠居。この時の義持はまだ9歳であり、義満は義持を補佐する形で政治の実権を握り続けました。義持は義満のバックを受けて破格の官位昇進を続け、当初は仲が良かったとされます。

最終的に2人は不仲になりますが、大きなきっかけがありました。それは義持の母親であり、義満の側室である藤原慶子の死でした。1399年に慶子が死去した時、義持は喪に服していました。実の母が亡くなれば、悲しむのは当然ですね。

しかし義満はその死を悲しむ様子はなく、ゲラゲラと笑いながら酒宴を開いたそうです。この行動は多感な時期の義持には衝撃的であり、以来2人の仲は悪くなりました。義持は義満が死去した1408年にやっと政治の実権を握ります。

義満の治世では幕府や朝廷、大名は表向きは良好な関係を築きつつも、義満の壊し屋的な性格も相まって割とギスギスしていました。義持は各勢力と良好な関係を築く事に心を砕き、比較的安定した政治運営を行っています。

エピソード3「死因は暗殺?謎の多い晩年」

天皇旗
出典:Wikipedia

義満は1408年に51歳で急死。体調を崩してからわずか10日程の出来事でした。義満の死は歴史的にみてもタイミングが良すぎる為、古くから暗殺説が囁かれています。一説では義満は「天皇の乗っ取り計画」を企てたとされます。

義満は1390年頃から皇室に影響力を持ち、後小松天皇を傀儡にしていました。義満は後小松天皇の長子を圧力で出家させ、自分の次男・義嗣を後小松天皇の養子にする事を考えていたとされます。ちなみに後小松天皇の長子が有名な「一休さん」です。

義満が倒れる2日前の4月25日。義嗣の元服の式が親王(天皇の兄弟や皇子)に準ずる形で行われるました。更に義満が座る畳は天皇や上皇しか座る事の出来ない繧繝縁。義満が絶大な権威を持っていた事が分かります。

仮に義嗣が後小松天皇の養子になり、後小松天皇が出家すれば義嗣が次期天皇になりますね。そうすれば義満は天皇の父親として更に権威を手にできるのです。物的証拠だけ見れば義満の天皇乗っ取り計画は成功寸前だったと言えます。

ただ近年では様々な考証から暗殺説は否定されつつあります。ただあまりにもタイミングの良い死から、可能性が捨てきれないのも事実なのです。

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