1383〜1388年 – 26〜31歳「源氏長者となる」
源氏長者となる
義満は1383年に源氏長者となります。源氏長者とは源氏の中で最も官位の高い人物が就任し、源氏一族の祭祀、召集、裁判などの権限を持ちます。なぜ足利姓の義満が源氏長者になったのかといえば、足利氏は「源氏」から分家した一族だからです。
源氏長者は最も官位の高い源氏出身者が就任する為、本来は源氏の血を引く貴族が就任しました。義満は将軍でありながら公家社会の一員として官位の昇進を続けた結果、武士としても公家としても「源氏の頂点」に登り詰めます。
幕府で影響力を持つ細川、山名、斯波などの一族も源氏の血を引いていました。義満の源氏長者就任は幕府と朝廷の双方で義満の影響力を高めていったのです。ただこの時点では南朝勢力も未だ健在で、義満の基盤は盤石ではありませんでした。
平尾合戦
1388年に義満は河内国平尾で、南朝の武将・楠木正勝の襲撃を受けました。この時に事前に情報網を張っていた幕府方の武将・山名氏清が義満を助けた事で、義満は命を拾います(平尾合戦)。
この平尾合戦において楠木正勝は敗北し、南朝の敗北は決定的になりました。しかし山名氏は平尾合戦を経て「日本の6分の1」を支配する大大名となります。義満は南朝以上に「山名氏」への警戒感を強めたのです。
1389〜1392年 – 32〜35歳「有力大名の削ぎ落とし」
土岐康行の乱と明徳の乱
義満は平尾合戦で南朝勢力が後退すると有力大名の削ぎ落としを図ります。最初のターゲットは土岐氏でした。1389年に義満は土岐氏の兄弟喧嘩に介入し、内乱を起こさせます。義満は土岐満貞に加担して、康行を制圧(土岐康行の乱)。
次のターゲットは幕府以上に勢力を誇った山名氏です。義満は今度は山名氏の家督争いに介入し、兄弟で争うように仕向けます。山名氏は勢力が削がれた頃に「これは山名氏の力を落とさせる義満の策略」と気づきます。
山名満幸と氏清は「真の敵は義満」と確信。1391年に京へ侵攻を開始します(明徳の乱)。この時に活躍したのが将軍直属の常備軍・奉公衆と、九州で影響力を持っていた大友氏でした。義満は明徳の乱に勝利し、山名氏の勢力は大きく後退したのです。
斯波氏の後退
土岐氏、山名氏の弱体化を図る頃、義満は管領を務めていた「斯波義将」の駆逐も行なっていました。1389年に「康暦の政変」で失脚した細川頼之の罪が許されると、義将の立場は微妙になっていきます。
1391年に義将は管領を辞任。後任は頼之の弟の細川頼元が管領となります。実は細川氏と山名氏は仲が悪く、義満から山名氏に対する挑発行為でした。義満は斯波氏の失脚と山名氏の挑発を同時に行なっていたのです。
1392〜1393年 – 35〜36歳「明徳の和約と後円融上皇の崩御」
明徳の和約
1392年になると南朝勢力の衰退は明らかでした。この年に義満は南北朝の統一を達成(明徳の和約)。朝廷が分裂してから58年が経過していました。
ちなみに明徳の和約では「北朝と南朝が交互に天皇を即位させる約束」が決められます。この約束は義満が死去後に反故にされ、怒った南朝勢力の一部は「後南朝」を樹立。彼らは応仁の乱の1467年頃まで活動を続けています。
後円融上皇の崩御
有力大名の駆逐に南北朝の統一を果たした義満ですが、更なる追い風が吹きます。1393年には義満と対立していた後円融上皇が崩御します。義満の影響力は朝廷でも不動のものになりました。
当時の天皇は後小松天皇で、後円融上皇が院政を敷いていました。義満は後円融上皇の代わりに後小松天皇に対する影響力を行使。後小松天皇は義満の傀儡となりしました。義満の権力はとどまる事がなかったのです。
1394〜1399年 – 35〜40歳「出家する」
義持に将軍職を譲る
やがて義満は1395年に息子の義持に将軍職を譲ります。これは義持のバックから幕府を牛耳る為でした。同年に義満は朝廷の最高職・太政大臣に就任し、とうとう「幕府と朝廷のトップ」に君臨しました。
ちなみに同年に義満は出家。出家とは仏門に入る事です。義満は大きな権力を持っていた宗教勢力を傘下にする為に出家したとも言われます。義満が出家した際には少し前に復帰していた斯波義将など、有力な武将も出家しています。
金閣寺を作る
出家した義満は北山殿という別荘を建て、この地で政治を牛耳ります。金閣寺の他、1403年には高さが109mに及ぶ日本最大の仏塔である相国寺七重大塔を建立。この建物は500年にわたり日本最大の建築物として君臨しました(現在は消失)。
この頃から義満は明と貿易をする事を考えます。当時、明の船が頻繁に寄港していたのは九州の太宰府でした。この地は今川了俊や大内義弘などが強い影響力を持っていました。
義満は貿易を独占する為、1395年に九州探題の今川了俊を罷免。更に1399年には大内義弘を挑発し、挙兵したところを征伐しています(応永の乱)。この時点で義満に対抗できる大名はいなくなったのです。
1400〜1404年 – 41〜45歳「明との貿易」
日明貿易
1401年に義満は明に使節を派遣。義満の熱意は認められ、建文帝は義満を「日本国王」とみなします。日明貿易は1404年から開始されました。
明にへりくだった義満の行動を良しとしない公家も多くいました。しかし義満に反対できる人はおらず、不満を日記に書く事しかできません。義満は憧れの明と貿易をするだけでなく、巨額の富を得たのです。
太上天皇の称号を求める
1404年頃から義満は「自分自身に太上天皇の尊号を贈って欲しい」と朝廷に働きかけています。太上天皇とは「譲位した天皇の尊称」です。
この時代、現役の天皇ではなく譲位した天皇が院政を敷いて権力を握る事がしばしばありました。幕府や公家、仏教勢力の頂点に立ち、莫大な富を得た義満が最後に求めたのは「天皇の座」だったのです。
1404〜1408年 – 45〜49歳「天皇乗っ取り計画?」
太上天皇の称号は得られず
結論から言えば義満に太上天皇の称号が贈られる事はありませんでした。ただこの頃の義満には上皇や法皇にしか認められなかった先例が適用されています。義満は上皇に限りない存在になっていました。
1408年には息子の義嗣が元服。義満は義嗣を後小松天皇の皇太子にして義嗣が新たな天皇になるように画策したという説があります。近年では否定されつつある説ですが、状況的には「その可能性は十分にあった」と言えます。
1408年 – 45〜49歳「義満死去」
義満死去
しかし義満は義嗣元服の3日後の4月27日に倒れ、5月6日に49歳で亡くなりました。義満は死去後に朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られますが、息子の義持、管領の斯波義将はそれを断ります。結果的に義満の野望はここで潰えたのです。
義持は義満を否定する
ちなみに義満の政策は義持により否定されます。義持は日明貿易を中止した他、北山殿にある金閣寺以外の建物を時間をかけて全て破壊。
更に義満のように周囲に火種をバラまいて幕府の権力を強めるのではなく、周囲との調和を大切にした政策をとりました。義満によって大きな力をつけた室町幕府は、新たな局面へと進んでいくのです。