万葉集に収められる和歌の種類
万葉集にはおおまかに3種類の和歌に分けられます。それは一体どのような内容だったのか、詳しく迫ります。
雑歌(ぞうか)
雑歌とはカテゴリーに分けられない和歌を指します。主に、天皇の外出である行幸、宴、遷都にまつわる公的な和歌について詠まれたものが多く、他の種類の和歌に先立って掲載されているのです。このことから雑歌は、万葉集の中でも重要な和歌に位置づけられていたのが分かります。
「雑」という字は中国において「第一のもの」という意味。お正月に「お雑煮」を食べますが、これは「一番はじめに食べるもの」という意味を指します。雑歌もこの意味と同じく、他の和歌よりも優位であるのを示しているのです。
相聞歌(そうもんか)
相聞歌とは「恋の歌」。恋人同士で詠み交わされた和歌はもちろん、親子、兄弟姉妹、親族間など、親しい人に関する和歌も相聞歌になります。恋人間での往復される和歌もありますが、片思いや失恋について詠う私的な恋情の和歌も相聞歌です。
相聞歌は万葉集の中でも半分の数を占め、約1,900首収められています。
挽歌(ばんか)
挽歌とは「死者を悼む歌」。親しい者を失った人が嘆き悲しむ哀惜の和歌を指します。万葉集の中に約220首収録されています。
天皇の死去や、伝説の人物の死を嘆く和歌のほか、自傷の歌や辞世句も挽歌に含んでおり、人の死にかかわる全般の和歌が挽歌です。
その他の和歌
上記の3つの和歌の種類のほかにも、地方で詠われた和歌の種類を紹介します。
防人歌(さきもりのうた)
防人とは筑紫や壱岐などの北九州地域の防衛にあたった兵士のこと。彼らが詠んだ和歌を「防人歌」と言います。663年に朝鮮半島で白村江の戦いで敗北したあと、北九州地域を守る兵役制度が設けられた時に誕生した役職です。
多くは関東地方に住む人が選ばれ、3年間防人としての任務を命じられました。家族と離れて遠い地へ赴任し、帰りたくても帰れない人や行き倒れになった人も続出。そんな人々が詠んだのが防人歌でした。
離れて暮らす家族を思い慕う和歌や、その強い寂しさを叙述した和歌が目立ちます。
東歌(あずまうた)
東歌とは、信濃より東側の東国地方で詠われた和歌です。万葉集の中に230首収録されています。
東国方言で詠われた和歌ですが、どのようなプロセスで万葉集に収められたかはいまだ分かっていません。東国独特の方言で詠われており、「武蔵野」などの単語が多く登場するのが特徴です。山部赤人や高橋虫麻呂などの詠み人がいます。
東歌の中でも特に有名なのが、現・千葉真市川市付近に住んでいた女性「手児奈(てこな)」をめぐる悲恋の歌。その伝説は今でも残り、手児奈が汲んだとされる井戸が残っています。
万葉集の代表歌人を和歌と共に紹介
全4500首ある万葉集のなかでも特に有名な和歌にはどんなものがあるのでしょうか。有名歌人とともに紹介します。
額田王(ぬかたのおおきみ)
額田王は飛鳥時代に活躍した天智天皇の妃です。『日本書紀』にも登場し、鏡王の娘、十市皇女の母にあたる皇族の女性。非常に美しく才能ある女性だった額田王は、采女という貴族の世話役であった説があります。
額田王は、はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚し、二人の娘を授かります。しかし大海人皇子の同母兄弟である中大兄皇子(のちの天智天皇)にも見初められ、最終的には天智天皇の妃となりました。
このように二人の男性の間で心揺れた額田王は、その恋心や思慕を和歌にたくさん託しました。
額田王とはどんな人?生涯・年表まとめ【万葉集に残る和歌や逸話についても紹介】
額田王の代表和歌①「あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」
額田王の最も有名な和歌。かつての夫・大海人皇子へ宛てた相聞歌であり、これに対し大海人皇子もお返事の和歌を詠っています。
「袖振る」というのは、当時の求愛行動を指します。恋しい人の魂を引き寄せる占術的な意味合いがありました。「野守」とは番人のこと。秘めた恋が周囲にばれてしまわないように、という意味が込められています。
天智天皇の妻でありながらも、昔の夫・大海人皇子へ愛情を表現しているこの和歌からは、3人の複雑な関係性が浮き彫りになっていますが、実際は額田王が晩年に宴席において過去の恋を引き合いに詠んだ和歌だそう。天皇を中心にした政治の中で、血筋を残すために男女が結婚するという当時の価値観がよく理解できますね。
額田王の代表和歌②「君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」
これは、夫・天智天皇がやって来るのを待ちわびる恋心を描いた和歌。秋風に揺れる暖簾に一瞬どきっとするも、天智天皇ではなかったことを嘆く一句です。
当時の結婚形態は、男が妻である女の家を訪れる「通い婚」が一般でした。男が女を訪ねることを「妻問い(つまどい)」と言い、この和歌はその瞬間を待つ額田王の心情を繊細に描いています。
「秋」は「飽きる」とも掛けられており、「天智天皇は私に飽きたのかしら」という煩悶や嘆きの気持ちも込められています。このような表現技法からも額田王の文才の高さが読み取れますね。
額田王の代表和歌③「 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
この和歌は、白村江の戦いに出向く際に兵士の士気を高めるために額田王が詠んだとされるもの。「月が出るのを待っていると潮の流れも合致した。さぁ行こう」という意味で、勇ましさが感じられます和歌です。熟田津の場所ははっきりと分かってはいませんが、愛媛県道後温泉あたりと推定されています。
朝鮮半島の内部の戦いで唐・新羅に破れかかった百済の援軍の要請に答えた日本。当時の天皇・斉明天皇を総帥とし、約27000の兵士を連れて船で朝鮮半島へ赴きました(白村江の戦い)。
緊張感漂う中、皆の気持ちを一つにさせたのがこの額田王の和歌。ここからも額田王の情の深さが感じられますね。