日本陶芸史に名を残す「野々村仁清」
野々村仁清は天才と呼ばれる陶工です。高いろくろ技術を持っていたため、陶器の姿が大変美しいだけではなく、色絵付けを大成させ、京焼(今でいう清水焼)に大きな影響を及ぼしました。洗練された優雅な作風は多くの人に絶賛され、今も残る作品はほとんど国宝や重要文化財に指定されています。
浮世絵を登場させた「菱川師宣」
庶民が気軽に手に取れる浮世絵を芸術作品の地位に押し上げたのは菱川師宣です。版画浮世絵は墨刷り一色ではあるものの、大量生産されて安くで買えたため、人気を博します。絵の具を使った肉筆の美人画は特に多くの人に愛され、菱川師宣の描く美人こそ江戸の女性だと言われるほどでした。
菱川師宣とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や功績、浮世絵の確立までの経緯なども紹介】
江戸幕府根幹の思想を生み出した「藤原惺窩」
播磨出身の儒学者である藤原惺窩(せいか)は、鎌倉時代の歌人である藤原定家の子孫です。封建社会を維持していくための教学として、幕府や藩に重んじられた朱子学を学び、近世朱子学の祖とも言われます。特に藤原惺窩の一派は、京都で発展したために「京学」と呼ばれています。徳川家康に儒者として仕えた林羅山の師としても有名です。
神道と朱子学を結びつけた「山崎闇斎」
山崎闇斎(あんさい)は、朱子学の一派である崎門(きもん)学派の創始者であり、垂加神道を唱えたことで知られています。土佐に起こった朱子学の一派である南学(海南学派)を学んだ後、会津藩主保科正之に招かれて重用されます。そこで出会った吉川惟足(これたり)に神道を学んだことから垂加神道を生み出したのです。
朱子学と神道を融合させた垂加神道は、道徳性が高いのが特徴です。神の道と天皇の徳が一体であることを説いたため、幕末に尊王論の根拠とされました。崎門学派からは多くの優秀な門下生を輩出しました。幕末の有名な尊攘派志士である梅田雲浜もその一人です。
日本の陽明学の祖である「中江藤樹」
近江出身の儒学者である中江藤樹(とうじゅ)は、日本の陽明学の祖と言われます。もともと朱子学を学んでいましたが、陽明学の教えである「知行合一」という認識と実践の合一を説くことで、社会の矛盾を改めようとしました。この陽明学が、幕末において志士たちに多大な影響を及ぼし、彼らを倒幕運動へと駆り立てていくことになります。
陽明学とは?朱子学との違いも分かりやすく解説【名言や本も紹介】
独自の儒学を築いた古学派の「山鹿素行」「伊藤仁斎」「荻生徂徠」
儒学を始めた孔子や孟子の原典に立ち返り、今の幕藩体制に合う儒学を作ろうとしたのが、古学派と呼ばれる儒学者たちです。
武士道の確立に尽力した山鹿素行は聖学、個人の倫理を突き詰めようとした伊藤仁斎(じんさい)は堀川学派(古義学派)、道徳から離れて政治や社会の治め方を考え、政策を提言する学問の基礎を築いた荻生徂徠(おぎゅうそらい)は古文辞学派(蘐園学派)と、3つの流派があります。