永倉新八の功績
功績1「最終的に隊長代務まで務めたこと」
永倉新八は新撰組の中で近藤や土方の信頼も厚く、鳥羽・伏見の戦いの時には土方歳三の不在時に隊長代務を務めています。鳥羽・伏見の戦いの時は、近藤は怪我のために不在であり、実質土方が隊長を務めていました。
その土方が不在時は隊長代務を永倉が行っていたのです。一番隊組長の沖田は病のために不参加で、次に二番隊組長である永倉が代わりをしたのでしょうが、全隊員を率いてる職務まで任せてもらえたことは誰でも出来ることではなく、功績の一つといえるでしょう。
そして、鳥羽・伏見の戦いでは決死隊を募り、刀一つで新政府軍に突撃。唯一敵陣への切り込みを見せる奮闘を見せています。
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功績2「新撰組の記録を多く残したこと」
明治時代に永倉は、「新撰組顛末記」「浪士文久報国記事」など新撰組がどういった部隊だったのかの証言を残しています。新撰組顛末記は小樽新聞の記事に載せられたもので、現在も新撰組を知る上での貴重な資料となっています。
またこれらの証言は、新撰組の「賊軍で悪の人斬り集団」という世間のイメージを払拭し、新撰組の再評価へと繋がったといわれています。
永倉新八の名言
「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」
如何に永倉が剣術を愛していたかが、この言葉を聞くと分かるようです。竹刀の音を聞かないと、ご飯が進まないというのはかなり重度だなと感じる言葉です。
「お国のために働いた身体だ。俺の誇りだ」
晩年酒に酔うと、ふんどし一枚になって銃創を見せて言っていたといいます。永倉は自分の傷の由来を「七ケ所手負場所顕ス」というタイトルで書き残しています。
「自分は剣術の他に能はない」
明治時代も剣術に携わり、剣の指導を行っていました。自分の人生に誇りを持ち生きていたことが分かるエピソードです。