永倉新八にまつわる逸話
逸話1「そもそも粛正だらけの新撰組で生き残ったのが凄い!?」
新撰組は事件での死者よりも、内部粛正で死亡した人が多い部隊です。「武士よりも武士らしく」というモットーで規律が厳しかったり、内部の派閥争いで暗殺が多かったためです。
最終的に近藤が率いる天然理念流派が部隊を率いるようになりますが、他流派の神道無念流であった永倉は二番隊組長として活躍します。そして後に近藤の増長を会津に直訴したりもしていますが、粛正されずに生き残っています。
近藤と対立して前局長の芹沢鴨や参謀の伊東甲子太郎が暗殺されたことを考えると、自分の身も危うくなる可能性がありました。しかし上手く立ち回り生き残ることができ、明治に近藤と土方のお墓を立てたりしているところを見るとバランスが取れた人物だったのかもしれません。
逸話2「日清戦争にも参加する気満々だった」
1894年の日清戦争開戦時、当時55歳だった永倉は抜刀隊に志願しましたが、「お気持ちだけ」と断られたというエピソードが残っています。人生50年といわれた時代に老年であるのに、戦地に赴こうとする気概が凄いと感じてしまいます。そして永倉は、
「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」
と自嘲したと伝わっています。
永倉新八の生涯年表
1839年 – 0歳「松前藩江戸屋敷で誕生する」
1839年に松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として誕生しました。松前藩は蝦夷地のアイヌとの交易で栄えた日本でも珍しい藩ですが、永倉は親が江戸定府だったために、江戸生まれの江戸育ちで成長しました。
「撃剣館」に入門する
1946年に神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門しています。しかし入門して4年目に師である岡田利章(三代目岡田十松)が亡くなったために、以後岡田助右衛門が剣の指導にあたっています。15歳で切紙、18歳で本目録となり元服し新八と称しました。
剣術を極めるために脱藩、放浪の旅に出る
元服後、剣術好きのために脱藩し永倉と姓を改めて、市川宇八郎と剣術修行の旅に出ています。そして江戸に戻ると、心形刀流剣術の坪内主馬に見込まれて、道場の師範代を務め、そこで門下生の島田魁に出会っています。島田魁も新撰組に所属し明治を生き、新撰組の証言を残している人物です。
この頃に「試衛館」の近藤たちと出会い、食客として滞在していました。その後浪士隊の募集に近藤たちと共に応募。京に向かいました。
1863年 – 24歳「新撰組に入隊する」
1863年に新撰組の前身「壬生浪士隊」に参加。その後新撰組と名が変わり、近藤が局長となると二番隊組長と撃剣師範となりました。1864年の「池田屋事件」では、一番危険な「死番」として近藤や沖田総司らとともに参加。親指の怪我を負いますが、刀が折れるほどの奮闘を見せています。
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会津藩に近藤の非行五か条を会津藩に提出
局長近藤の行動に我儘な振る舞いが増えたということで、永倉・斎藤一・原田左之助・島田魁・尾関政一郎・葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五か条を提出しています。
内容は近藤を局長と認めるが、あくまで同士であり家臣ではないといった内容でした。近藤が増長した理由に、武田観柳斎が隊士は家臣として近藤を慕っていると吹き込んだからといわれています。結局近藤とは和解していますが、血の気が多く反発が強い葛山は抗議のために切腹したといわれています。
油小路事件に参加
1867年の油小路事件に参加し、伊東甲子太郎や藤堂平助など御陵衛士を暗殺しています。この時藤堂平助はまだ若いということで永倉と原田は逃がそうとしたといいますが、その意を知らない別の隊員に斬られています。