寛政の改革で取り組んだ6つの政策
定信は1787年〜1793年の間に同時進行で改革を行っていきます。改革の内容を6つの分類に分けて解説していきますが、時系列に沿っているわけではありませんので、ご了承ください。
政策①「農村の復興や穀物の備蓄」
定信は「飢饉で壊滅した農村の再建」に力を注ぎました。農村の負担を軽減する為、「助郷」の軽減や「納宿」の廃止を行いました。助郷とは宿場付近の村民に課せられた労働課役です。これを軽減し、規定を超えた労役にはお金を支払う事を決めています。
納宿は農村の米の輸送等を受け持つ株仲間ですが、不当な搾取をする事もあったのです。定信は納宿を廃止し、直接江戸の米商人と取引を行う「廻米納方引請人」を設定し、彼らに農民に負担を強いないように命じています。
諸藩には社倉の建設を命じ、飢饉に備えるよう通達。これを「囲米」と呼び、江戸では積立制度である「七分積金」とセットで行われました。更に江戸に出稼ぎに出ていた農民を農村に返す「旧里帰農令」を出すものの、あまり効果はなかったそうです。
その他には間引きの禁止や児童手当の拡充を行い、農村の人口増加に努めた他、米価抑制の為に、米を大量に使う造酒業に生産量を3分の1に削減するように命じています。
政策②「倹約による幕府財政の立て直し」
農村の窮乏で幕府の年貢収入は極端に悪化しており、定信は厳粛な倹約や風紀粛正で財政の引き締めを行いました。華美な生活を好む家斉にも細かな注意を行い、大奥の経費も削減。女性に目がない家斉の夜伽の回数さえ制限しています。
こうした厳格な姿勢は幕府の放漫財政に一定の効果があったものの、家斉や大奥から反発を買います。この対立は後の定信失脚の遠因となりました。
ちなみに倹約令の発布は江戸の景気悪化を招き、零細企業が増加。浮世絵師等の娯楽を生業にする人達を直撃した他、江戸の治安は悪化しました。ただ定信は倹約令の発布で治安が悪化する事は想定済で、帰農する農民が増加する事を想定しています。
定信は増加する無宿人や浮浪者を「石川島」に集め、手に職を身につけさせて、社会に復帰させる「人足寄場」を創設しています。人足寄場は強制収容所的な要素もありましたが、販売者に対する自立支援の考えは、世界的にみても画期的なものでした。
政策③「様々な商業政策」
通説では定信は田沼意次の商業政策を否定したとされますが、むしろ積極的に商業政策を取り入れています。商人や職人が利権を確保する為に結合した株仲間は大部分が存続され、株仲間を保障する代わりに幕府には上納金が納められました。
旗本や御家人の債権放棄や借金の利子引き下げを目的とした「棄捐令」を発布。幕府は民間の貸付業者より安い金利で貸付を行い、救済措置としました。貸付利金は農村の復興や、用水や鉱山開発などに使われており、武士と農民双方にメリットがありました。
更に関東経済圏の活性化を図り、酒、木綿、醤油等の改良を奨励。特に醤油の発展はめざましく、北関東の名産となりました。通貨制度は田沼時代よりも発展し、偽札対策などを徹底しています。
政策④「学問や思想の統制」
定信は田沼時代に乱れた「封建制度」の復活を考えました。幕政初期の精神の回帰を目指す為、大名や旗本の家譜集である「寛政重修諸家譜」の編集を命じています。1530巻という大作で、定信が失脚後も編纂は続き、完成したのは1801年の事でした。
また定信は幕臣の登用に、朱子学による試験制度を取り入れました。定信は「昌平坂学問所」を創設し、他藩の留学生や浪人の入学を許可。武士という立場ではあるものの、家柄に囚われない人材登用を行いました。
定信は「朱子学を幕府公認の学問」と定め、昌平坂学問所で陽明学や古学等の学問の講義をする事を禁じました。この政策を「寛政異学の禁」と呼びます。ただ他の学問を禁じたのは昌平坂学問所の話であり、蘭学などの在野の学問を禁じてはいません。
ただ「処士横議の禁」という制度を導入し、幕政批判は禁止しています。例えば林子平という海防学者が海防の必要性を提言した「海国兵談」を定信は発禁処分と版木没収の憂き目に遭っています。
政策⑤「対外政策や皇室問題にも強気の態度をとる」
この他にも多くの政策を定信は行いました。1793年には蝦夷地(北海道)にアダム・ラクスマンというロシア人が大黒屋光太夫という漂流民を連れて来航。その際に幕府に通商を求めています。
定信は鎖国体制に則り通商を拒絶し、長崎の出島でオランダ商館と通商交渉をする事を提案しています。ラクスマンは長崎に行かずにロシアに帰国しました。仮にラクスマンが長崎を訪れていれば、ロシアと日本は一足早く、貿易関係を築いていたかもしれません。
定信は海国兵談は発禁にしたにもかかわらず、海防の重要性を感じて伊豆、相模を巡検。江戸湾の防備体制を検討しています。ただ定信が失脚すると、一連の海防政策は全て中止になります。
また定信が老中就任時の天皇は光格天皇です。彼は養父の典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとしています。ただ定信は「皇位についていない人間に上皇の皇号を贈るのは先例がない」と反対。朝廷と幕府は対立を続けています。このやりとりを「尊号一件」と言います。
定信は農村の復興や倹約、商業政策をベースに対外政策や皇室問題にも熱心に改革を続けていくのです。
政策⑥「田沼政治の良い部分を踏襲する」
田沼意次と松平定信の不仲は有名で、通説では定信が意次の政策をことごとく否定したとされます。近年では「寛政の改革には田沼時代との連続性」があると指摘されています。
確かに定信は意次を失脚させる為、田沼政治を批判しています。しかし田沼政治の良い部分は継承し、むしろ発展させた部分も多いのです。
また田沼政治=積極財政、寛政の改革=緊縮財政と捉える事が多いのですが、意次もかなりの緊縮財政を行なっていた事も知られています。両者の政治スタンスには明確な対立軸はなく、人間関係による争いという面が多いのです。
歴史は常に考証や研究が行われ、日々新たな視点や発見が生まれています。寛政の改革や田沼政治についても、今後新たな発見が生まれるかもしれませんね。
寛政の改革は天明の大飢饉への対応がメインで、定信自身の思想からの政策をやるには六年という期間は短すぎたということかな。隠居後は大衆文学を愛し、かつて弾圧した相手を保護したりもしてますし。
松平定信が田沼の政策を否定してないとか歴史は色々変わっていきますね