寛政の改革で生まれた3つの結果
結果①「立て直しには成功し、国民福祉という思想も芽生える」
寛政の改革はある程度の立て直しに成功しました。100万両の赤字が予想された幕府財政は黒字に転換。定信が失脚する1793年頃には20万両の貯蓄を残すまでになったのです。
寛政の改革の功績は「民を救う為の政治」を行った事でした。定信以前にも徳川綱吉や吉宗などにより多くの改革は行われています。ただ「農村復興」や「職業訓練所」などの「公共福祉」に主眼を置いたのは定信が初めてです。
定信は国家が食料を備蓄する必要性をこう述べました。
国に九年の貯え無くば不足なりと曰う、六年の貯え無くば急なりと曰う、三年の貯えなくば国その国に非ずと曰う
天明の大飢饉で多くの餓死者が出たのは、国家による米の備蓄が不十分だったからです。定信は国家は最低でも9年の食料を備蓄する必要性があると述べており、そこからは「1人の餓死者も出したくない」という公共福祉に伴う強い信念が見て取れます。
また定信の政策の一部は、寛政の改革が頓挫した後も続いています。人足寄場は明治維新まで続き、七分積金による積立金は明治維新の際には170万両となりました。このお金は学校の建設や近代的な道路整備などに使われて行ったのです。
結果②「国民の生活は困窮し、有名な狂歌生まれる」
ただ「民を救う為の政治」には多くの痛みが伴いました。田沼時代は庶民に対する締め付けがほとんどありませんでした。杉田玄白や前野良沢による「解体新書」が発行され、平賀源内が台頭したのもこの時代です。
定信は倹約令による厳しい引き締めを行い、浮世絵や見世物などの娯楽にも制限を課しました。田沼時代に花開いた江戸の文化は一気に萎んでいったのです。以下の狂歌は寛政の改革と田沼時代の比較として分かりやすいかもしれません。
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
「白河」とは定信が藩主を務めていた白河藩の事であり、魚とは庶民を指しています。つまり「松平定信の治世より、放任主義の田沼意次の時代が懐かしい」という事ですね。この狂歌からわかる通り、次第に寛政の改革は国民の支持を失っていきました。
結果③「将軍・家斉との対立」
寛政の改革はやがて将軍・家斉も批判の目を向けました。1793年7月23日、定信は海防視察で出張している間に辞職を命じられ、老中首座と将軍補佐の職を辞職します。定信の治世は僅か6年で終わりを告げたのです。
定信失脚の原因は先ほど解説した「尊号一件」も関係しています。定信が「光格天皇の養父・典仁親王に上皇の尊号を贈る事」に反対していた頃、家斉も父の一橋治済に「将軍職を退いた者に与えられる大御所」の地位を与える事を考えていました。
典仁親王に上皇の称号を認めれば、治済に大御所の称号を与える事を否定出来ません。定信と治済は意次を失脚させる為に共闘したものの、定信にとっては家斉との将軍争いをした政敵です。定信は治済の大御所の称号を認める事は許せなかったのです。
結果的に定信は尊号一件で典仁親王に上皇の称号を与える事を認めず、治済も大御所の称号を得る事は出来ませんでした。これは治済の怒りを買ったとされ、定信は失脚の憂き目にあったのです。
様々な問題が山積する中での辞任であり、落首で「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」という狂歌も生まれました。定信の主導による寛政の改革は頓挫したものの、幕府内には定信派の老中も多く、彼らにより政策は続けられます。
享保の改革・寛政の改革・天保の改革の違い
続いて江戸の三代改革である「享保の改革」と「天保の改革」の違いについて解説していきます。
享保の改革とは
享保の改革は徳川家8代将軍・徳川吉宗により進められました。吉宗は「幕府権力の再興」を目指しました。7代将軍・家継が7歳で病没し、将軍家の後継は途絶えてしまいます。御三家から新たな将軍を擁立する事になり、紀州藩の吉宗が選ばれたのです。
吉宗は家継の政務を取り仕切っていた新井白石を罷免。改革は吉宗が将軍になった1716年から開始され、終わりについては1735年から1745年と開きがあります。
吉宗は年貢の割合を引き上げた他、豊凶にかかわらず一定の額を収める「定免法」を制定。「上米の制」で諸藩1万石に100石の献上米を課す代わりに参勤交代の緩和を命じます。新田開発も行う等、米関係の政策も多く「米将軍」と呼ばれました。
幕府の財政は改善し、幕府の金蔵には100万両の金が蓄えられました。ただ農民への負担は大きく、一揆も頻発しています。ただ都市政策として「目安箱」や火事対策の「火消し組」、貧民救済施設である「小石川養生所」が作られました。
その他の政策として「洋書輸入を解禁」や幕府の基本法典である「公事方御定書」、サツマイモや朝鮮人参の栽培研究、元文小判の改鋳などを行いました。
寛政の改革は天明の大飢饉への対応がメインで、定信自身の思想からの政策をやるには六年という期間は短すぎたということかな。隠居後は大衆文学を愛し、かつて弾圧した相手を保護したりもしてますし。
松平定信が田沼の政策を否定してないとか歴史は色々変わっていきますね