天保の改革とは
天保の改革は1841年から1843年に老中の水野忠邦により行われた改革です。この頃には外国船が相次いで出没し、先代の将軍・家斉による放漫財政や貨幣経済の発達に伴う幕府の財政悪化など、この頃の幕府は大きな問題を抱えていました。
忠邦は1841年に50年も政治の場にいた家斉が死去すると、11代将軍の家慶の後ろ盾のもとで改革を断行。忠邦は「享保の改革、寛政の改革に立ち返る事」を宣言しています。吉宗と定信同様に倹約令が出され、贅沢・奢侈なものは一切が禁じられます。
農本の復興の為に「人返し令」を行い、物価高騰を食い止める為に「株仲間の解散」や「貨幣の改鋳」を行うものの、逆に財政は悪化。また「無利子年賦返済令」を行い、旗本などの借金救済にあたるものの、貸し渋りでうまくいきませんでした。
忠邦は江戸や大阪の周囲の大名を幕府の直轄領とする「上知令」を画策し、幕府の行政機構の強化を図ります。しかし直轄地にされる大名の反発は物凄く、忠邦が失脚する原因となりました。
ある程度の成功を収めた享保の改革と寛政の改革に比べると、天保の改革は成果を残せませんでした。この時代は幕藩体制にも歪みが生まれていたからです。結果的に改革は2年で終わり、幕府の権威は失墜。幕府の寿命を縮める結果になったのです。
各改革の語呂合わせ
各改革を覚える語呂合わせも存在します。
改革の順番は
今日、寒天
→享保→寛政→天保
年号は
ヒ(1)ロ(6)シ(4)、子(5)は(8)な(7)く(9)、さび(3)し(4)い(1)資(4)産(3)
となります。これは享保の改革(1716年〜1745年)、寛政の改革(1787年〜1793年)、天保の改革(1841年〜1843年)の下二桁の年号を並べたものです。
享保の改革は
悪事、締め切り
→あ(上米)くじ(公事方御定書)、締(新田開発)め(目安箱)切り(キリスト教に関係ない書物の輸入禁止)
寛政の改革は
禁煙7分(しちふん)で、菜の花2束とかっこいいキュウリあげる
→禁煙(棄捐令)7分で(七分積金)、菜の花(1787年)2束(石川島人足寄場)とかっこいい(囲米)キュウリ(旧里帰農令)あげる
天保の改革は
格好い(かっけい)散歩は、上智に引き返して水飲み解散
→かっけい(家慶)散歩(三方領知替え)は、上智(上知令)に引き返して(人返しの法)水飲み(水野忠邦)解散(株仲間解散)
となります。本当は時代背景と政策の意味を覚えるのが良いですが、語呂合わせで楽しく覚えるのも一つかもしれません。
享保の改革・寛政の改革・天保の改革が三大改革と呼ばれる理由
江戸の三大改革という概念が生まれたのは、水野忠邦が天保の改革を宣言した時に「享保と寛政を模倣とする」と宣言した事が背景にあります。過去には徳川綱吉や新井白石、田沼意次も改革をしていますが、忠邦はこれらを模倣するとは言っていません。
享保の改革と寛政の改革に共通しているのは「幕藩体制の強化」と「緊縮財政」であり「幕府にとって有益な改革」だった点です。天保の改革を含めた3つの改革を特別扱いするのは元を辿れば「江戸幕府の史観」が色濃く反映されています。
天保の改革以降も阿部正弘による安政の改革や、徳川慶喜による慶応の改革なども行われており、これらは幕府の構造改革に大きな影響を与えています。ただこの改革は「幕藩体制の強化」とは大きく異なり、幕府にとっては本来は認めたくないものでした。
各改革を考証し、その後の歴史に与えた影響を比較していけば「江戸の三大改革」という概念もいずれは廃れていくのかもしれません。
寛政の改革は天明の大飢饉への対応がメインで、定信自身の思想からの政策をやるには六年という期間は短すぎたということかな。隠居後は大衆文学を愛し、かつて弾圧した相手を保護したりもしてますし。
松平定信が田沼の政策を否定してないとか歴史は色々変わっていきますね