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寛政の改革をわかりやすく解説!内容や結果も簡単に紹介

寛政の改革は江戸時代中期に老中・松平定信によって行われた幕政改革です。定信が老中となり、天災や飢饉の影響で財政難に陥っていた幕府の再建を図りました。

松平定信の自画像
出典:Wikipedia

一定に成果を上げた寛政の改革ですが、名前が有名な一方で改革の詳しい内容や結果が曖昧な人もいるはず。

そこで今回は寛政の改革を内容や結果、「享保の改革」や「天保の改革」との違いも交え、わかりやすく解説します。

この記事を読み寛政の改革へ理解を深めれば、歴史の見方もより深くなりますよ。

寛政の改革とは

寛政の改革(1787年〜1793年)は江戸中期に松平定信により進められた幕政改革です。「徳川吉宗の享保の改革(1716年〜1745年)」と「水野忠邦の天保の改革(1841年〜1843年)」の3つを合わせ「江戸の三大改革」と呼びます。

改革の目的は?

江戸城の天守
出典:Wikipedia

定信は「倹約令による財政緊縮政策」を主導しました。吉宗時代には300万両あった幕府の備蓄金は、1788年には81万両に減少。定信が改革に着手した頃の幕府財政は、飢饉と将軍・家治の葬儀により100万両の赤字が予想されていたのです。

また度重なる天災により各地で飢饉が発生。幕府は一揆や打ちこわしの対処に追われ、封建的な幕藩体制を揺らがせる事態も起きていました。定信は旧来の幕藩体制を維持する為に「民を救うための政治」も主導しています。

寛政の改革により赤字財政は黒字となり、更に20万両の備蓄にも成功しました。更に福祉政策に伴い「経世済民」の思想に基づいた行政が生まれています。寛政の改革はある程度の成功を収めたのです。

一方で厳しい倹約令は庶民や幕府内からも不満が生まれ、定信は1793年7月に第11代将軍・徳川家斉に老中解任を言い渡されました。ただ寛政の改革の方針は定信の意思を継いだ老中首座・松平信明らにより、1817年頃まで続けられています。

改革に至るまでの経緯

田沼意次
出典:Wikipedia

定信が寛政の改革に着手する前は、田沼意次が幕政を掌握していました。意次は従来の農業を中心とした農本主義政策を改め、旧来の慣習に縛られない商業を重視した政策を展開しました。これを田沼政治や田沼時代(1767年〜1786年)と言います。

ただ田沼時代には1772年に「明和の火事」が起こり、1万4000人の死者が発生。浅間山の大噴火に伴う冷害や火山灰の影響で天明の大飢饉(1782年〜1786年)が起こり、東北では数万人の死者が出ています。農民が江戸に流れ、治安も悪化していきました。

米の収穫高も激減し1787年には江戸や大阪の米屋で打ちこわしが発生。全国で意次に対する不満が高まっていたのです。意次は近年では再評価の声が高まっていますが、災害が頻発する状況では幕府の財政を悪化させる事しか出来ませんでした。

ちなみに天明の大飢饉が起きた頃、定信は東北の白河藩の藩主を務めていました。定信は藩を挙げて飢饉対策をし、白河藩は1人の餓死者も出していません。定信が「徳川吉宗の孫」という背景もあり、老中に登用する声も高まっていくのです。

クーデタをきっかけに改革へ着手する

10代将軍 徳川家治
出典:Wikipedia

1786年8月25日に後ろ盾の10代将軍・家治が死去すると、意次は2日後に老中を罷免されます。更に閏10月5日には2万石を没収され、江戸屋敷の明け渡しを命じられました。意次は家治の後ろ盾で権勢を誇っていた経緯もあり、これは一種のクーデターです。

クーデターには新たに将軍になった徳川家斉の父親、一橋治済が関与していました。彼は反田沼派を指揮し、定信もその流れに属していたのです。吉宗は自分の子孫が将軍に就任出来るよう「清水家」「田安家」「一橋家」という御三卿という家を作りました。

田安家は定信の兄・治察が継ぐものの彼は病弱でした。定信は幼少期から聡明で知られ、治察が死去すれば定信が田安家の当主となり、やがて将軍になる可能性がありました。意次は定信の台頭を危惧し、1775年に17歳の定信を白河藩の養子に斡旋したのです。

この経緯もあり、定信は意次を恨んでいました。なお新たな将軍の家斉は「一橋家」の人間。田安家の定信は将軍になれず、ある意味で一橋家とのお家争いに敗れたとも言えるのです。結果的に定信は将軍にはならず、老中として実権を握る事になりました。

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寛政の改革で取り組んだ6つの政策

定信は1787年〜1793年の間に同時進行で改革を行っていきます。改革の内容を6つの分類に分けて解説していきますが、時系列に沿っているわけではありませんので、ご了承ください。

政策①「農村の復興や穀物の備蓄」

夏の水田
出典:Wikipedia

定信は「飢饉で壊滅した農村の再建」に力を注ぎました。農村の負担を軽減する為、「助郷」の軽減や「納宿」の廃止を行いました。助郷とは宿場付近の村民に課せられた労働課役です。これを軽減し、規定を超えた労役にはお金を支払う事を決めています。

納宿は農村の米の輸送等を受け持つ株仲間ですが、不当な搾取をする事もあったのです。定信は納宿を廃止し、直接江戸の米商人と取引を行う「廻米納方引請人」を設定し、彼らに農民に負担を強いないように命じています。

諸藩には社倉の建設を命じ、飢饉に備えるよう通達。これを「囲米」と呼び、江戸では積立制度である「七分積金」とセットで行われました。更に江戸に出稼ぎに出ていた農民を農村に返す「旧里帰農令」を出すものの、あまり効果はなかったそうです。

その他には間引きの禁止や児童手当の拡充を行い、農村の人口増加に努めた他、米価抑制の為に、米を大量に使う造酒業に生産量を3分の1に削減するように命じています。

政策②「倹約による幕府財政の立て直し」

北斎が描いた石川島
出典:Wikipedia

農村の窮乏で幕府の年貢収入は極端に悪化しており、定信は厳粛な倹約や風紀粛正で財政の引き締めを行いました。華美な生活を好む家斉にも細かな注意を行い、大奥の経費も削減。女性に目がない家斉の夜伽の回数さえ制限しています。

こうした厳格な姿勢は幕府の放漫財政に一定の効果があったものの、家斉や大奥から反発を買います。この対立は後の定信失脚の遠因となりました。

ちなみに倹約令の発布は江戸の景気悪化を招き、零細企業が増加。浮世絵師等の娯楽を生業にする人達を直撃した他、江戸の治安は悪化しました。ただ定信は倹約令の発布で治安が悪化する事は想定済で、帰農する農民が増加する事を想定しています。

定信は増加する無宿人や浮浪者を「石川島」に集め、手に職を身につけさせて、社会に復帰させる「人足寄場」を創設しています。人足寄場は強制収容所的な要素もありましたが、販売者に対する自立支援の考えは、世界的にみても画期的なものでした。

政策③「様々な商業政策」

北関東の醤油は寛政の改革で発展した
出典:Wikipedia

通説では定信は田沼意次の商業政策を否定したとされますが、むしろ積極的に商業政策を取り入れています。商人や職人が利権を確保する為に結合した株仲間は大部分が存続され、株仲間を保障する代わりに幕府には上納金が納められました。

旗本や御家人の債権放棄や借金の利子引き下げを目的とした「棄捐令」を発布。幕府は民間の貸付業者より安い金利で貸付を行い、救済措置としました。貸付利金は農村の復興や、用水や鉱山開発などに使われており、武士と農民双方にメリットがありました。

更に関東経済圏の活性化を図り、酒、木綿、醤油等の改良を奨励。特に醤油の発展はめざましく、北関東の名産となりました。通貨制度は田沼時代よりも発展し、偽札対策などを徹底しています。

政策④「学問や思想の統制」

昌平坂学問所は湯島聖堂の一部として作られた
出典:Wikipedia

定信は田沼時代に乱れた「封建制度」の復活を考えました。幕政初期の精神の回帰を目指す為、大名や旗本の家譜集である「寛政重修諸家譜」の編集を命じています。1530巻という大作で、定信が失脚後も編纂は続き、完成したのは1801年の事でした。

また定信は幕臣の登用に、朱子学による試験制度を取り入れました。定信は「昌平坂学問所」を創設し、他藩の留学生や浪人の入学を許可。武士という立場ではあるものの、家柄に囚われない人材登用を行いました。

定信は「朱子学を幕府公認の学問」と定め、昌平坂学問所で陽明学や古学等の学問の講義をする事を禁じました。この政策を「寛政異学の禁」と呼びます。ただ他の学問を禁じたのは昌平坂学問所の話であり、蘭学などの在野の学問を禁じてはいません。

ただ「処士横議の禁」という制度を導入し、幕政批判は禁止しています。例えば林子平という海防学者が海防の必要性を提言した「海国兵談」を定信は発禁処分と版木没収の憂き目に遭っています。

政策⑤「対外政策や皇室問題にも強気の態度をとる」

大黒屋光太夫と磯吉
出典:Wikipedia

この他にも多くの政策を定信は行いました。1793年には蝦夷地(北海道)にアダム・ラクスマンというロシア人が大黒屋光太夫という漂流民を連れて来航。その際に幕府に通商を求めています。

定信は鎖国体制に則り通商を拒絶し、長崎の出島でオランダ商館と通商交渉をする事を提案しています。ラクスマンは長崎に行かずにロシアに帰国しました。仮にラクスマンが長崎を訪れていれば、ロシアと日本は一足早く、貿易関係を築いていたかもしれません。

定信は海国兵談は発禁にしたにもかかわらず、海防の重要性を感じて伊豆、相模を巡検。江戸湾の防備体制を検討しています。ただ定信が失脚すると、一連の海防政策は全て中止になります。

また定信が老中就任時の天皇は光格天皇です。彼は養父の典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとしています。ただ定信は「皇位についていない人間に上皇の皇号を贈るのは先例がない」と反対。朝廷と幕府は対立を続けています。このやりとりを「尊号一件」と言います。

定信は農村の復興や倹約、商業政策をベースに対外政策や皇室問題にも熱心に改革を続けていくのです。

政策⑥「田沼政治の良い部分を踏襲する」

田沼意次失脚の黒幕 一橋治済
出典:Wikipedia

田沼意次と松平定信の不仲は有名で、通説では定信が意次の政策をことごとく否定したとされます。近年では「寛政の改革には田沼時代との連続性」があると指摘されています。

確かに定信は意次を失脚させる為、田沼政治を批判しています。しかし田沼政治の良い部分は継承し、むしろ発展させた部分も多いのです。

また田沼政治=積極財政、寛政の改革=緊縮財政と捉える事が多いのですが、意次もかなりの緊縮財政を行なっていた事も知られています。両者の政治スタンスには明確な対立軸はなく、人間関係による争いという面が多いのです。

歴史は常に考証や研究が行われ、日々新たな視点や発見が生まれています。寛政の改革や田沼政治についても、今後新たな発見が生まれるかもしれませんね。

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