「西郷隆盛が指揮した西南戦争ってどんな戦争?」
「どんな目的で、結局どうやって終結したの?」
西南戦争(西南の役)は、1877年に西郷隆盛を盟主として起こった士族最大の反乱です。国内最後で最大の内乱といわれ、九州各地が戦地となりました。被害はとても大きく、多くの死傷者を出しています。
「明治維新の三傑」の一人、西郷隆盛が自決するという日本史上でも影響が大きく残った西南戦争。しかし近代は授業でも名前を聞くくらいであまり詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。
そこでこの記事では西南戦争の流れや背景、戦いなどを詳細に解説します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
西南戦争とはどんな戦争だった?
交戦勢力 | 明治政府 | 薩摩軍 |
---|---|---|
年月日 | 1877年2月~9月 | |
指揮官 | 有栖川熾仁親王 山縣有朋 川村純義 | 西郷隆盛 篠原国幹 桐野利秋 |
戦力 | 約80,000~ 100,000名 | 約30,000名 |
死傷者数 | 約6,400名 戦死 | 約6,800名 戦死 |
結果 | 明治政府軍の勝利、西郷隆盛の死 により薩摩軍鎮圧される |
西南戦争は征討軍(明治政府軍)と薩摩軍を合わせると、約130,000人もの人が戦闘に参加した大規模な乱でした。戦地は九州各地に及び、約半年の戦闘で両軍合わせて約13,000人の犠牲者を出しています。
西南戦争(西南の役)の流れを簡単に解説すると
西南戦争は明治政府が初めて本格的な軍事行動を起こした戦いであり、日本史上最大にして最後の士族の内乱です。明治時代になり武士の特権は奪われていき、遂に1876年に「廃刀令」「金禄公債証書発行条例」という刀・俸禄が無くなる法律が施工されます。そのため旧士族は経済的にも精神的にも追い詰められ、九州各地で士族の反乱が起きました。
当時西郷隆盛は鹿児島に帰省しており、そのため不平士族を統率する指導者として西郷に集っていきました。当初西郷は政府と事を構えるのに反対でしたが、「西郷暗殺計画」を知らされやむなく旧薩摩藩士を中心として挙兵しています。
西郷の挙兵を受けて明治政府も陸軍の山縣有朋と海軍の川村純義に討伐を任じ、有栖川宮熾仁親王が討伐総司令官に任命します。薩摩軍は熊本城と近くの田原坂を中心に攻防を繰り広げますが、数や装備の質が劣るため徐々に敗退していき熊本城を落とせずに薩摩へと戻っていきます。
薩摩軍は城山に立てこもり、鹿児島住民も西郷に味方したために一時は鹿児島市街をほぼ制圧しました。しかし数に勝る征討軍は薩摩軍を追い詰めていき、西郷が逃亡中に被弾した為に諦めて自決します。西郷の死により残兵は討ち死にか自決、または征討軍に降伏し西南戦争は終わったのです。
西南戦争が起こるまでの背景
「西南戦争」と名づけられるほどの大きな内戦だった西南の役は、沢山の要因が積み重なり結果的に乱が起こるきっかけができてしまいました。西南戦争が起こるまでの時代背景を解説します。
次々と新政策が打ち出された
先のトピックで少し触れましたが、明治政府が打ち出した政策により旧士族の不満が募っていた背景があります。一つは「俸禄処分」を行い武士の給料を大きく削減し、武士の経済状況が悪化していました。
当時明治政府は人口5パーセントの武士に国庫予算の約3割にあたる給料を与えており、国庫はひっ迫していました。給料が削減され士族も別の仕事を探すにしてもすぐに順応できるわけでもなく、士族の生活困窮と共に不満が高まっていったのです。
その上に「苗字」と「帯刀」という領主制度の時の特権が奪われたこともあげられます。明治になると士族だけでなく皆苗字を名乗るようになり、「武士の命」といわれた「帯刀」もできなくなりました。その上明治政府が「徴兵制」を取り入れることにより、急速に武士の存在価値が失われていったのです。
江戸幕府を倒し明治政府を打ち立てたにもかかわらず、特権を奪われプライドが傷つけられただけに関わらず、給料も減り結果不満は蓄積されていくこととなりました。