小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

西南戦争とは?原因や中心人物、その後の影響をわかりやすく解説【年表付】

「西郷隆盛が指揮した西南戦争ってどんな戦争?」
「どんな目的で、結局どうやって終結したの?」

西南戦争(西南の役)は、1877年に西郷隆盛を盟主として起こった士族最大の反乱です。国内最後で最大の内乱といわれ、九州各地が戦地となりました。被害はとても大きく、多くの死傷者を出しています。

西南戦争の浮世絵(真ん中が西郷隆盛)
出典:Wikipedia

「明治維新の三傑」の一人、西郷隆盛が自決するという日本史上でも影響が大きく残った西南戦争。しかし近代は授業でも名前を聞くくらいであまり詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。

そこでこの記事では西南戦争の流れや背景、戦いなどを詳細に解説します。

西南戦争とはどんな戦争だった?

西南戦争を描いた画
出典:Wikipedia
交戦勢力明治政府薩摩軍
年月日1877年2月~9月
指揮官有栖川熾仁親王
山縣有朋
川村純義
西郷隆盛
篠原国幹
桐野利秋
戦力約80,000~
100,000名
約30,000名
死傷者数約6,400名
戦死
約6,800名
戦死
結果明治政府軍の勝利、西郷隆盛の死
により薩摩軍鎮圧される

西南戦争は征討軍(明治政府軍)と薩摩軍を合わせると、約130,000人もの人が戦闘に参加した大規模な乱でした。戦地は九州各地に及び、約半年の戦闘で両軍合わせて約13,000人の犠牲者を出しています。

西南戦争(西南の役)の流れを簡単に解説すると

熊本で起こった「神風連の乱」、不平士族が乱を起こした
出典:Wikipedia

西南戦争は明治政府が初めて本格的な軍事行動を起こした戦いであり、日本史上最大にして最後の士族の内乱です。明治時代になり武士の特権は奪われていき、遂に1876年に「廃刀令」「金禄公債証書発行条例」という刀・俸禄が無くなる法律が施工されます。そのため旧士族は経済的にも精神的にも追い詰められ、九州各地で士族の反乱が起きました。

*俸禄
幕藩体制下に家臣が領主から給与された米、幕府や藩から米を給与される制度を俸禄制といった

当時西郷隆盛は鹿児島に帰省しており、そのため不平士族を統率する指導者として西郷に集っていきました。当初西郷は政府と事を構えるのに反対でしたが、「西郷暗殺計画」を知らされやむなく旧薩摩藩士を中心として挙兵しています。

有栖川宮熾仁親王が討伐総司令官に任命された
出典:Wikipedia

西郷の挙兵を受けて明治政府も陸軍の山縣有朋と海軍の川村純義に討伐を任じ、有栖川宮熾仁親王が討伐総司令官に任命します。薩摩軍は熊本城と近くの田原坂を中心に攻防を繰り広げますが、数や装備の質が劣るため徐々に敗退していき熊本城を落とせずに薩摩へと戻っていきます。

薩摩軍は城山に立てこもり、鹿児島住民も西郷に味方したために一時は鹿児島市街をほぼ制圧しました。しかし数に勝る征討軍は薩摩軍を追い詰めていき、西郷が逃亡中に被弾した為に諦めて自決します。西郷の死により残兵は討ち死にか自決、または征討軍に降伏し西南戦争は終わったのです。

西南戦争が起こるまでの背景

戦争が起こるまでに不穏な出来事が立て続いている

「西南戦争」と名づけられるほどの大きな内戦だった西南の役は、沢山の要因が積み重なり結果的に乱が起こるきっかけができてしまいました。西南戦争が起こるまでの時代背景を解説します。

次々と新政策が打ち出された

俸禄処分により武士の給料は大きく削減された

先のトピックで少し触れましたが、明治政府が打ち出した政策により旧士族の不満が募っていた背景があります。一つは「俸禄処分」を行い武士の給料を大きく削減し、武士の経済状況が悪化していました。

当時明治政府は人口5パーセントの武士に国庫予算の約3割にあたる給料を与えており、国庫はひっ迫していました。給料が削減され士族も別の仕事を探すにしてもすぐに順応できるわけでもなく、士族の生活困窮と共に不満が高まっていったのです。

武士の証だった「帯刀」も禁じられた
出典:Wikipedia

その上に「苗字」と「帯刀」という領主制度の時の特権が奪われたこともあげられます。明治になると士族だけでなく皆苗字を名乗るようになり、「武士の命」といわれた「帯刀」もできなくなりました。その上明治政府が「徴兵制」を取り入れることにより、急速に武士の存在価値が失われていったのです。

江戸幕府を倒し明治政府を打ち立てたにもかかわらず、特権を奪われプライドが傷つけられただけに関わらず、給料も減り結果不満は蓄積されていくこととなりました。

明治六年の政変(征韓論)が起こる

征韓論議論の画(中央が西郷隆盛)
出典:Wikipedia

西郷隆盛は「征韓論」を唱えていました。ただし西郷の場合は板垣退助などのように朝鮮への出兵を唱えたわけではなく、朝鮮に自らが「朝鮮使」として赴き朝鮮に開国を求めるといったものだったといいます。

当時朝鮮は清を「宗主国」としており、鎖国政策をとっていました。そのため朝鮮から見て日本は欧米諸国に屈しているように見え、日本の意見に応じて開国するなどもってのほかと考えていました。当時政権を握っていた大院君は、

「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」

という程日本を嫌っていました。そのためロシアの南下政策に対抗したかった日本は、武力で朝鮮を制圧しようという考えが芽生えていったのです。

明治初期の板垣退助(写真前列真ん中)
出典:Wikipedia

そして1873年に征韓論を唱える西郷たちに対し、反対派である岩倉具視や大久保利通らが反対意見を天皇に申し出て、結局西郷の朝鮮派遣は中止となります。これにより西郷や板垣・江藤新平などは辞表を提出。さらに薩摩藩や土佐藩出身の官僚600人も辞職し、この事件は「明治六年の政変」と呼ばれています。この時に西郷は鹿児島に帰ってしまい、以後私学校設立に従事することとなりました。

九州各地で一揆が頻発

秋月の乱を描いた画
出典:Wikipedia

1876年の廃刀令などの制定により、同年九州各地で不平士族の乱が頻発しています。10月24日に熊本で「神風連の乱」、10月27日に福岡で「秋月の乱」、10月28日に山口で「萩の乱」が起こっています。

鹿児島にいた西郷はこれらの事件を聞いて11月に桂久武に書簡を出しており、この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情が書かれていたそうです。ただし自分の周りが先走らないように自分は動かないとも記しており、反乱の意志はなかったと考えられています。

木戸孝允、四民平等など士族特権を失くす方向に政治を進めていた
出典:Wikipedia

しかしこの時期は「四民平等」や「廃藩置県」を前面に押し出されていた時期で、政策をすすめる木戸孝允や大隈重信などに全く反感がなかったとも言い切れないため、この時期は西郷の心情を憶測することしか出来ないのが現状です。

廃藩置県とは?目的や影響をわかりやすく解説【地図付きで前後の変化も紹介】

西南戦争が起こった原因

鹿児島でも反感が高まり一触即発の状態となっていた

九州各地で不平士族が起こした反乱と同じように、鹿児島でも士族の不満は高まっていました。そんな中、いつ乱が起きてもおかしくない状態であり、明治政府も薩摩が反乱を起こすことを恐れていました。結果恐れていたことが起こってしまったのですが、どうして西南戦争が起こったのか?原因を解説します。

赤龍丸と弾薬掠奪事件

陸軍の主力銃・スナイドル銃の弾薬を作る設備は鹿児島にしかなかった
出典:Wikipedia

1877年の1月に政府は鹿児島陸軍省の工場にある弾薬製造設備を大阪に移すために、秘密裏に「赤龍丸」という船を鹿児島に派遣して運び出しています。それを薩摩士族が聞きつけ、薩摩の士族は政府の火薬庫を連日襲撃。弾薬6万発を奪い取っています。これが俗にいう「弾薬掠奪事件(だんやくごうだつじけん)」といわれています。

これほどまでに旧薩摩士族を怒らせた理由は、弾薬製造設備は藩士が出し合ったお金で購入したものであり、自分たちが使うものだという気持ちがあったといいます。薩摩藩はスナイドル銃の重要性見抜きオランダ商社を通してイギリスから製造機械を輸入し、国産で唯一製造できる地域でした。その弾薬を政府が泥棒のように搾取する政府が許せなかったのです。

西郷暗殺計画の情報を得た

西郷の弟、西郷小兵衛(一番左)西南戦争で戦死している
出典:Wikipedia

同じく1月に私学校幹部が警視庁帰藩組を内偵すると「西郷隆盛を暗殺する目的で帰郷」が判明。その頃西郷は根占(現:鹿児島県南大隅町)で狩猟していましたが、西郷の弟・西郷小兵衛を派遣し報告を聞いています。その後別の人物から「弾薬掠奪事件(だんやくりゃくだつじけん)」の報告を聞き、事の顛末を聞いた西郷は「ちょーしもた(しまった)」といい鹿児島に帰ったといいます。

2月3日に警視庁帰藩組の約60名を一斉検挙。苛烈な拷問を加えた結果、川路大警視が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られ、私学校生徒達の怒りは頂点に達したのです。ただし西南戦争後に生き残った野村忍介が「西郷は自分の暗殺計画を信じていた」と証言しています。そのため西郷も完全に担ぎあげられただけとはいえない面もあるようです。

1 2 3

コメントを残す