4月13日:熊本城解放
薩摩軍の主力が北部に移動してからも、長く包囲が続けられていました。そのため熊本城内では食料が欠乏し限界の状態に来ていました。しかし海軍から多くの兵が征討軍に増援。13日に山川浩中佐が選抜隊を率いて熊本城目指して突入、城下に達しています。
そして薩摩軍は熊本城包囲兵を解き、14日に全軍木山方面に撤退を開始しました。そのため征討軍は熊本城に入城したのです。そして約50日以上奮戦した薩摩軍は全面崩壊し、新たに戦線を構築するものの不利な場所に追い詰められてしまいました。
4月17日:坂東会戦
撤退した17日に薩摩軍は木山に本営を敷き、20kmあまりの防衛線を築き官軍を迎え撃つ作戦をたてました。19日に征討軍は攻撃開始、薩摩軍の攻撃に中々前進できずに戦いは熊本全土で行われています。
しかし次第に征討軍に押され気味の戦いも起こり、薩摩軍が優勢だった戦いもありましたが後退を余儀なくしました。関ケ原の戦い以来最大の野戦となった「坂東会戦」は1日で決着がついたのです。
4月21日:人吉攻防戦
薩摩軍は三州(薩摩・大隅・日向)を制圧する策を採るため、陣地を人吉と決めました。そして人吉に病院や弾薬製造所を設けること、人吉を中心に南北に両翼を広がるように陣を組むように手配しています。
この後両軍の攻防は6月頃まで続きました。当初人吉周辺の要路を中心に薩摩軍は防衛し、一進一退を繰り返しています。しかし6月1日に薩摩軍の防衛線は敗退。そして各部隊は応戦を続けながら人吉に向かっています。勢いがました征討軍を止めるべく、薩摩軍は球磨川の橋を燃やし防ごうとしますが失敗。征討軍は人吉に入りました。
戦闘で人吉の城下町は火に包まれてしまっています。この戦いは3日続き薩摩軍は征討軍の南下を防ごうとするものの失敗、人吉は征討軍によって占領されました。
6月24日:鹿児島方面の戦い
鹿児島市周辺でも4月から戦いが繰り広げられていました。5月に薩摩軍と征討軍の激突があり、征討軍によって砥石製造所・食糧倉庫などが焼却されています。しかし薩摩軍も反撃し、多数の銃器と弾薬を確保しました。
しかし次第に征討軍の攻撃に弾薬も乏しくなった薩摩軍が耐えきれず、川上地方に退却しています。征討軍は薩摩軍の砦を落とし、鹿児島周辺の薩摩軍を撃退しました。そして退却した薩摩軍が都城に終結しているという情報を聞き、政府軍は陸・海両方から挟み撃ちをすることにしています。
7月24日:都城の戦い
5月に薩摩軍は宮崎方面を制圧しており、宮崎支庁を占領。28日に軍務所と改称していました。そして西郷は31日に軍務所に着くと新たな薩摩軍の本陣として機能し、軍札(西郷札)などが作られ財政の立て直しを図っています。
そして7月には人吉・鹿児島方面から退却した軍を含め、征討軍を迎え撃つべく体制を建て直しています。しかし24日に征討軍が財部を占領。その後河野主一郎率いる守備隊を破り、庄内を占領。都城に撤退した薩摩軍を追って都城に潜入しました。
要所である財部と庄内を占領されたために、都城の薩摩軍は総崩れとなりその日に都城も占領されています。この頃征討軍に投降する薩摩将兵も相次ぐものの、薩摩軍は宮崎に活路を見出そうとしていました。しかし都城陥落された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的になってしまったのです。
8月15日:西郷「薩摩軍解放」を命ずる
豊後・日向方面も5月まで薩摩軍の勢力下に置かれていましたが、征討軍の本格的な攻撃に6月以降劣勢に追い込まれていきます。
7月27日に日南市を攻められ陥落。31日には宮崎・佐土原を制圧されています。そして8月に西郷は各隊長あてに奮起を促す書状を送っていますが、防ぎきれず本陣を門川町に移しています。この時病院と弾薬製造所を延岡から熊田(現:北川町)に移し、本陣も移転しました。
そして山縣有朋率いる征討軍は8月12日に本格的攻撃を始動、南・西・北から薩摩軍を包囲しています。これに対して西郷軍は和田峠で征討軍を迎え撃ちます。この戦いは熊本城以来、西郷が指揮した最後の戦いとなりました。
8月15日まで両軍一進一退の激戦が続きましたが、遂に征討軍が守備隊を突破し薩摩軍は熊田に退却しています。西郷は児玉熊治邸で宿陣をはりますがそこも包囲され、児玉邸近くまで大砲が届くぐらいに征討軍が迫っていました。
そのため遂に西郷は「薩摩軍解散」の命を出しています。そして児玉邸の裏庭で軍服を焼いたそうです。この時に足に大怪我を負っていた長男・菊次郎を仕えていた老人に託し、愛犬2匹を野に放って自由にさせています。菊次郎は背負われて叔父の西郷従道に投降したそうです。