西南戦争に関わった中心人物
西南戦争における主要人物を紹介します。西南戦争を語る上で知っておきたい人物です。
薩摩軍
西郷隆盛
幕末の武士・陸軍軍人・政治家です。幕末は禁門の変以降活躍し、薩長同盟や王政復古に成功しています。江戸総攻撃の前に勝海舟と会談し、「江戸無血開城」も成し遂げました。しかし明治時代に「征韓論」を唱え、政変に負けて鹿児島に帰り私学校教育に専念しています。
しかし九州各地の乱の後に私学生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるものの、破れて城山で自決しました。死後十数年経て名誉を回復され、贈正三位の位を授けられています。
篠原国幹
鹿児島出身の軍人で幕末は神道無念流を学び、馬術・槍術・弓術も極めていたといいます。その後戊辰戦争で功績をあげ、明治政府では陸軍少将を務めています。征韓論に破れて鹿児島に帰る西郷に従い、明治天皇が引き止めるものの職を辞し鹿児島に帰っています。篠原の軍事能力は凄く評価されていたために、新政府に大きな衝撃だったそうです。
西南戦争では赤裏のオーバーコートをきて銀装刀のいで立ちで陣頭で指揮しましたが、赤いオーバーコートを目印にされ狙撃の上手い兵に撃たれ死去しています。享年41歳でした。
別府晋介
鹿児島県出身の軍人です。西郷に付き従い新政府では近衛陸軍大尉を務めています。征韓論の時は朝鮮の釜山に赴き、変装して2ヶ月程滞在し偵察していました。征韓論に破れ西郷が鹿児島に帰るときに一緒に職を辞し帰省。共に私学校の創設に携わりました。
西南戦争の時は足に被弾し重傷を負ったものの、籠で移動しながら戦い西郷が被弾したときに命じられて西郷の介錯を務めています。その後別府も自決しました。享年31歳でした。
政府軍(討伐軍)
川村純義
鹿児島県出身の軍人で海軍大将を務めていました。西郷隆盛の遠い親戚で、弟のように可愛がってもらったといいます。海軍に従事し、海軍創世期を牽引した人物でした。
西南戦争時は鹿児島に赴き県令の大山綱良と会談し何とか食い止めようとするも、私学校党幹部の妨害にあい成果を得られずに終わっています。そして戦争が始まると海軍を山縣有朋と共に率いて海上からの軍員、物資輸送・海上からの砲撃しました。最中も西郷に投降を勧める書簡を送ったりしています。西南戦争後は明治天皇の信任厚く、昭和天皇の養育を任されています。
山縣有朋
山口出身の軍人で、後に陸軍総長を務め内閣総理大臣にもなりました。西南戦争の時は陸軍卿兼任のまま現場総指揮官に任命されています。そして薩摩軍の猛攻にあうものの抜刀隊の投入などで巻き返し、薩摩軍を追い込みました。
城山の戦いは幾重にも囲んで包囲し、戦争終結のために西郷に自決を勧める書状を送っています。しかし西郷からの返信が無かったために総攻撃を開始しました。そして西郷の自決により戦争が終わり、山縣は西郷の遺体を検分しています。その時任務を全うしつつも西郷の死に涙し悼んだそうです。
黒田清隆
鹿児島出身の軍人で陸軍中将になった人物です。幕末は薩長同盟のために奔走し、戊辰戦争では参謀を務めています。1876年の日朝修好条規を結び、西南戦争でも熊本城の解放に功績を残しました。しかし山縣と合流すると辞任を要求。一週間後には戦線を離脱しています。
大久保利通の死後は薩摩閥の重鎮となり、内閣総理大臣に就任しました。そして西郷の名誉回復のために一役買い、西郷の名誉回復に成功させています。