西南戦争とは?原因や中心人物、その後の影響をわかりやすく解説【年表付】

9月1日:城山に籠城

可愛岳
出典:全国観るナビ

解散命令で約2000名は投降しますが、約1000名は西郷に最後まで従うと同行しています。西郷軍は包囲される中、8月17日に地元猟師の案内で可愛岳(えのだけ)に入り18日に政府軍が手薄な所を狙って襲撃。征討軍は総崩れとなっています。そして食料と弾薬3万個・大砲1門を奪うことに成功し、西郷軍は高千穂を通り鹿児島を目指しました。

そして9月1日に政府軍の鹿児島守備隊を撃破し城山に籠城します。この時鹿児島の情勢は西郷に傾いていて、住民の協力もあり鹿児島市街をほぼ制圧しています。しかし6日には征討軍が城山を包囲。この時に薩摩軍は約350名程度だったそうです。

9月24日:西郷隆盛死去

西郷隆盛らが籠城した西郷洞窟
出典:Wikipedia

そして22日に西郷は「決死の意」を告知しています。翌23日には川村純義が持ち帰った降伏の書を無視し、山縣有朋の自決のすすめも返事していません。9月24に征討軍の総攻撃が開始され、銃弾に倒れるものも多い中、西郷も腹部に被弾。そして西郷は「ここいらでよかろう」といい、自決しました。

西郷の死を見届けた者たちは自決・銃弾に倒れ、別府九郎や野村晋介らは「法廷で戦う」と決意し征討軍に投降しています。当時の鹿児島県令・大山綱良は官金を西郷軍に提供した罪で斬首、その他にも西郷と交遊があったということで職を解かれたり投獄されたものもいました。

西郷隆盛の死因は自決?それとも腫れ物?最後の様子やその後の影響も紹介

西南戦争後の影響

西南戦争の余波は至る所に現れた

約8か月続いた西南戦争は、終わっても色々な方面で影響を及ぼしました。そういった意味で大きな節目だった戦争ともいえます。ここでは主な影響を見ていきます。

士族が没落し一揆も無くなった

自由民権運動を先導した板垣退助
出典:Wikipedia

西南戦争は政府に不満を持つ士族が武力で政府を倒すことは不可能だということを示すこととなりました。また戦闘のプロと認識されていた士族が、徴兵の兵に負けたために士族でなくても戦闘に影響がないということを示す結果にもなってしまったのです。これ以降士族たちは武力ではなく、言論で政府と戦う自由民権運動に参加するようになりました。

インフレ状態に陥った

西南戦争後日本経済はインフレに陥った

西南戦争はまだ経済基盤が確定しない明治政府にとって巨額の支出となりました。そのため支払いのために大量の紙幣が発行されたために、紙幣の価値が落ちてインフレ状態に陥っています。その一方で政府に協力した郵便汽船三菱会社(現:三菱)は巨額の利益をあげ、後に財閥となる基盤を作ることに成功しています。

西南戦争を扱った作品

西郷どん 完全版 第壱集

西郷隆盛の2018年に放映された大河ドラマシリーズです。日本を切り開き、多くの人に慕われた西郷隆盛という人物を描いた作品です。西南戦争だけでなく、幕末なども楽しめ日本の激動時期を余すことなく映像化されています。

西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)

非常に複雑な「西南戦争」という事柄をわかりやすく説明しています。字体が旧字体だったり、上級者向けですが戦闘の経緯や目的など細かい点まで解説してあり、西南戦争を詳しく知りたい人も満足できる内容です。

西南戦争 民衆の記《大義と破壊》

筆者が押したい歴史上級者におすすめしたい本です。一般的な西南戦争だけでなく、部外者から見た西南戦争の実態を見ることができます。戦争というものは悲惨なもので、対人戦だけでなく疫病も萬栄し大儲けした人もいる。戦争はとてもかっこいいものではないと改めて感じさせる1冊です。

西南戦争に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者は今回「西南戦争」を執筆する機会を頂き、改めて戦の経緯を辿ってみましたが、書ききれなかった事柄も多くあります。8か月の間に多くの血と涙が流された西南戦争。そして西郷隆盛生き様と多く改めて考えさせられる執筆でした。

まだ遠い昔ではないおよそ150年前に、多くの死傷者を出した西南戦争。やはり武力での解決ではなく、言論へと移行していったのは必然の流れのように感じました。今後同じ日本人同士で争うことがないように願う次第です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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