西南戦争とは?原因や中心人物、その後の影響をわかりやすく解説【年表付】

西南戦争の生き残りはいる?

生き残りの一人河野主一郎
出典:JapaneseClass.jp

多くの犠牲を出した薩摩軍に生き残りはいるのか気になる人も多いのではないでしょうか?結論からいうと、政府軍に投降して生き残った人はいます。その中でも著名な人物は以下の人です。

  • 河野主一郎(五番大隊一番小隊長)
  • 野村忍介(騎兵隊隊長)
  • 鮫島敬助(騎兵隊小隊長)
  • 大野義行(狙撃隊中隊長)
  • 田中市右エ門(西郷関係者)
  • 安藤源之承(西郷関係者)
  • 別府九郎(別府晋介の兄)

河野主一郎は西郷の助命嘆願に政府軍に行きそのまま捕虜となりました。野村忍介は西南戦争を先導した隊長の一人です。野村は城山の戦いで元騎兵隊の幹部と話し合い、明日決戦で死ぬべきか生きるべきかを討議した後に、最後まで法廷で戦い続けることを決意し数人で投降。その後服役し出所後は新聞社等に勤めています。

生き残りの一人野村忍介
出典:JapaneseClass.jp

別府・野村・鮫島・大野・田中・安藤は戦後に西南戦争を政府軍に尋問された記録が残っています。内容は西郷隆盛に対する質問や、戦闘の様子などです。記録を読むこともできるので、興味がある方は読んでみると面白いかもしれません。

西南戦争の主な戦いと出来事を年表形式で紹介

西南戦争の約8か月を経緯を時系列に紹介
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2月4日:西郷軍の結成

西郷軍は「新政厚徳」をスローガンとした
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西郷たちは2月4日に幹部を従え私学校本校に入り、幹部会議を開いています。別府晋介などは武力蜂起を唱え、野村忍介は京都にいる明治天皇に上奏すべきだと主張しています。結局会議はまとまらなかったものの、全軍出兵論が多数を占めたため出兵が決まりました。

そして熊本城を抑え主力は陸路で行くことが決まり15日に熊本に向けて進軍開始。政府側も報告を受け19日に、鹿児島県逆徒征討の詔を発し正式に征討軍を差し向けることを決めています。明治政府は有栖川宮熾仁親王を総司令官に任命。実質の総司令官になる人物は、山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命しています。

2月20日:熊本城攻撃

熊本城の強固な守りに薩摩軍は苦戦した
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2月20日、熊本城鎮台参謀長の樺山資紀中佐の派遣した偵察隊が発砲したことにより西南戦争が始まりました。薩摩軍では熊本城に抑えを置き東進するか熊本城を攻め落とすかを意見されますが、「全力で熊本城強襲」方針で決まります。この時の兵力は薩摩軍約14,000名、征討軍は約4000名でした。

そして22日に征討軍から薩摩軍への攻撃から砲撃戦が開始。しかし征討軍側の予想以上の猛攻を受け中々落とせません。この時乃木希典率いる征討軍が熊本城の応援に来ていますが、薩摩軍に押され後退。その時に乃木軍の軍旗を分捕ることに成功しています。このことを乃木は生涯悔いていたと伝わっています。

薩摩軍は政府軍の軍旗を奪うことに成功している
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結局薩摩軍は熊本城を包囲しつつも小倉へ向かう事が決まり、23日に北へ出発。そして植木・木葉で薩摩軍は立て続けに勝利しています。さらに追撃を続けるべきだという主張もありましたが、いまだに熊本城を諦めきれない部隊が熊本城攻撃を続行。結局熊本城攻撃の結果ははかばかしくなく、南下する征討軍を待ち構えることになり小倉北上作戦は失敗に終わりました。

2月26日:高瀬の戦い

稲荷山の確保を命じた政府軍指揮官・野津道貫
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2月26日に征討軍は高瀬に陣を敷き、薩摩軍の北上を阻みました。そして薩摩軍と激突。この地域の要となる稲荷山を征討軍が確保し、薩摩軍が何度も奪取しようとしますが死守しています。

当初全体的には優勢だった薩摩軍でしたが、弾薬の欠乏のため全部の隊を撤退させています。この頃征討軍は援軍が来たために反撃。この時に西郷の弟・西郷小兵衛が胸に銃弾を受けて戦死しています。この戦いは薩摩軍の桐野・篠原という最高の指揮官が指揮した戦いでしたが、存分に能力を発揮したとはいえず敗戦してしまい以後守勢に回ることとなりました。

3月1日:田原坂の戦い

西南戦争の銃弾が残っている建物
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3月1日から1か月間、田原坂で攻防が繰り広げました。当初薩摩軍は征討軍本営10kmに迫る進撃を見せ、警視隊参謀長の福原和勝参謀長を負傷させています(後に死亡)。しかし日々征討軍の戦力は増大していき、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王や川村純義が現地に到着します。

当時福岡から熊本へ繋がる道で大砲を通れるだけの広さがあるのは田原坂だけだったといいます。征討軍は田原坂を通ることを決めますが、薩摩軍の猛攻に合い中々通ることが出来ませんでした。薩摩軍は地の利を最大限に活かし激しい銃撃と抜刀兵に征伐軍は手も足も出せなかったといいます。

征討軍の抜刀隊
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そのため征討軍は剣術に秀でた抜刀隊を編制し、田原坂攻撃に投入しています。そして抜刀隊は薩摩軍の防衛線を初めて破ることに成功しました。20日に征討軍は一斉砲撃を開始し、ついに征討軍は田原坂を突破しています。

この時の戦いでは銃弾が1日平均32万発、多い時は60万発と使用され沢山の銃弾が飛び交ったことから「行合弾(銃弾同士が空中で激突する現象)が起きています。田原坂を突破することにより、討伐軍は熊本城救援の第一歩を掴むことが出来ました。

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