明治六年の政変(征韓論)が起こる
西郷隆盛は「征韓論」を唱えていました。ただし西郷の場合は板垣退助などのように朝鮮への出兵を唱えたわけではなく、朝鮮に自らが「朝鮮使」として赴き朝鮮に開国を求めるといったものだったといいます。
当時朝鮮は清を「宗主国」としており、鎖国政策をとっていました。そのため朝鮮から見て日本は欧米諸国に屈しているように見え、日本の意見に応じて開国するなどもってのほかと考えていました。当時政権を握っていた大院君は、
「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」
という程日本を嫌っていました。そのためロシアの南下政策に対抗したかった日本は、武力で朝鮮を制圧しようという考えが芽生えていったのです。
そして1873年に征韓論を唱える西郷たちに対し、反対派である岩倉具視や大久保利通らが反対意見を天皇に申し出て、結局西郷の朝鮮派遣は中止となります。これにより西郷や板垣・江藤新平などは辞表を提出。さらに薩摩藩や土佐藩出身の官僚600人も辞職し、この事件は「明治六年の政変」と呼ばれています。この時に西郷は鹿児島に帰ってしまい、以後私学校設立に従事することとなりました。
九州各地で一揆が頻発
1876年の廃刀令などの制定により、同年九州各地で不平士族の乱が頻発しています。10月24日に熊本で「神風連の乱」、10月27日に福岡で「秋月の乱」、10月28日に山口で「萩の乱」が起こっています。
鹿児島にいた西郷はこれらの事件を聞いて11月に桂久武に書簡を出しており、この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情が書かれていたそうです。ただし自分の周りが先走らないように自分は動かないとも記しており、反乱の意志はなかったと考えられています。
しかしこの時期は「四民平等」や「廃藩置県」を前面に押し出されていた時期で、政策をすすめる木戸孝允や大隈重信などに全く反感がなかったとも言い切れないため、この時期は西郷の心情を憶測することしか出来ないのが現状です。
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西南戦争が起こった原因
九州各地で不平士族が起こした反乱と同じように、鹿児島でも士族の不満は高まっていました。そんな中、いつ乱が起きてもおかしくない状態であり、明治政府も薩摩が反乱を起こすことを恐れていました。結果恐れていたことが起こってしまったのですが、どうして西南戦争が起こったのか?原因を解説します。
赤龍丸と弾薬掠奪事件
1877年の1月に政府は鹿児島陸軍省の工場にある弾薬製造設備を大阪に移すために、秘密裏に「赤龍丸」という船を鹿児島に派遣して運び出しています。それを薩摩士族が聞きつけ、薩摩の士族は政府の火薬庫を連日襲撃。弾薬6万発を奪い取っています。これが俗にいう「弾薬掠奪事件(だんやくごうだつじけん)」といわれています。
これほどまでに旧薩摩士族を怒らせた理由は、弾薬製造設備は藩士が出し合ったお金で購入したものであり、自分たちが使うものだという気持ちがあったといいます。薩摩藩はスナイドル銃の重要性見抜きオランダ商社を通してイギリスから製造機械を輸入し、国産で唯一製造できる地域でした。その弾薬を政府が泥棒のように搾取する政府が許せなかったのです。
西郷暗殺計画の情報を得た
同じく1月に私学校幹部が警視庁帰藩組を内偵すると「西郷隆盛を暗殺する目的で帰郷」が判明。その頃西郷は根占(現:鹿児島県南大隅町)で狩猟していましたが、西郷の弟・西郷小兵衛を派遣し報告を聞いています。その後別の人物から「弾薬掠奪事件(だんやくりゃくだつじけん)」の報告を聞き、事の顛末を聞いた西郷は「ちょーしもた(しまった)」といい鹿児島に帰ったといいます。
2月3日に警視庁帰藩組の約60名を一斉検挙。苛烈な拷問を加えた結果、川路大警視が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られ、私学校生徒達の怒りは頂点に達したのです。ただし西南戦争後に生き残った野村忍介が「西郷は自分の暗殺計画を信じていた」と証言しています。そのため西郷も完全に担ぎあげられただけとはいえない面もあるようです。