松平定信の名言
国に九年の貯え無くば不足なりと曰う、六年の貯え無くば急なりと曰う、三年の貯えなくば国その国に非ずと曰う
定信は寛政の改革で米の備蓄に力を入れました。この名言からは国民を餓死させないという強い決意が感じられます。
楽しきと思うが楽しきもとなり
楽しいという感情を生み出すには、まず自分が「楽しい」と思う事が大切です。定信も日々の政務を「楽しい」という感情を持つように意識して取り組んでいたのかもしれませんね。
心あて に見し夕顔の 花散りて 尋ねぞ迷ふ たそがれの宿
定信は詩歌に優れ、多くの名歌を残しました。上記の詩歌は定信の代表作であり、詩人としての定信を上記の「たそがれ」というフレーズから「たそがれの少将」と呼びます。
真面目な性格とは裏腹に、作風はとても趣を感じさせます。詩歌を嗜む時の定信は、為政者としてのプレッシャーから解放されていたのかもしれません。
松平定信にまつわる逸話
逸話1「田沼意次に賄賂を渡す」
定信の前に幕府の実権を握っていたのは田沼意次です。定信は一橋家と手を組み、田沼を失脚させる為に様々な行動を起こしました。その中の一つが「賄賂」です。定信は幕閣に登り詰める為、田沼や一橋家に賄賂を贈った事が伝わっています。
一般的に「田沼意次=賄賂政治家・松平定信=清廉潔白」というイメージがあります。実のところ、賄賂の横行は定信にかぎらず、江戸時代を通じて当たり前のように行われていました。それは幕閣に登り詰める為の重要な手段だったからです。
ただ定信は老中に就任すると、賄賂を受け取る事はありませんでした。定信が老中に就任後、幕府では2332両の臨時出費が発生しています。これらは不正ではなく、来客に対する応接費などでした。
老中の多くは応接費などの経費は賄賂で補填していましたが、定信はこれらの賄賂を一切受け取らなかったとされます。賄賂は送るが、受け取る事は一切しない。定信の信念が垣間見えるエピソードですね。
逸話2「潔癖すぎる性格が身を滅ぼす?将軍・家斉との対立」
寛政の改革時代の有名な狂歌として「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」というものがあります。定信は生真面目な性格から厳しい倹約令や文化の締め付けを庶民に行なっており、それを風刺されていたのです。
厳しい倹約令は将軍の家斉にも向けられました。定信は家斉の食事や性事情にも口出しをします。定信は儒教を重んじ、極めて禁欲的な人間でした。家斉は定信失脚後に放漫財政を築き、55人もの子を儲けた人物です。定信とは性格的に相容れないものがありました。
定信は1793年に突如失脚します。これは「尊号一件」という皇室問題で定信と家斉が対立していた事が大きいとされますが、元々の性格の違いも大きな要因でした。
真面目なのは良い事ですが、度が過ぎるとそれは欠点となります。ある程度の息抜きやガス抜きがないと、周囲の人と軋轢を生み出してしまう事が定信の性格からも分かるのです。
松平定信の生涯年表
1759〜1773年 – 0〜14歳「松平定信誕生」
松平定信誕生
定信は1759年1月25日に御三卿の田安家初代当主・徳川宗武の7男として生まれました。宗武は8代将軍・吉宗の次男であり、定信は吉宗の孫にあたります。
御三卿は徳川将軍家に後継がいない時に、将軍の後継者を出す役割がありました。御三卿は田安家の他に清水家と一橋家があり、それぞれは「その時」を待ち、虎視眈々と将軍の座を狙っていたのです。
聡明な定信
定信は幼少期より聡明で知られていました。田安家を継いだのは定信の兄・治察でしたが、病弱かつ凡庸な人物でした。そんな背景もあり、周囲の人々は「いずれ定信は田安家の後継者になる」と考えていたようです。
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1774〜1783年 – 15〜24歳「白河藩の養子となる」
策謀の始まり
将来を期待された定信ですが、1774年に陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子になる事が決まります。田安家の人々は定信の養子就任を断っていますが、半ば強制的に養子になる事は決まりました。
養子の斡旋に関与していたのは一橋家の当主・一橋治済と、当時幕府の実権を握っていた田沼意次でした。定信が田安家の当主になれば、彼が次期将軍になる可能性が高まります。彼らはそれを恐れたのです。
同じ年に田安家の当主・治察は死没。定信は田安家の復帰を願い出ますが、田沼や一橋家はそれを許可しませんでした。結果的に家康は当主が不在となり、定信は将軍候補から外れます。この事を理由に定信は田沼の事を恨み続けたのです。
政策の違いによる対立
田沼は商業に重点を置いた政策で経済発展を促しました。当時の武士の価値観として「お金儲けは卑しいもの」というものがあり、身分制度を重視する定信にとって田沼の政策は許せるものではありません。
田沼に賄賂を贈るなどして、幕閣入りを打診。自分がいつか政治の実権を握る為、その時に備えたのです。