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松平定信はどんな人?生涯・年表まとめ【行った改革や政策、子孫も紹介】

松平定信は、江戸時代中期に寛政の改革を主導した人物です。飢饉で多くの犠牲者が出る中、定信は寛政の改革で幕府の立て直しを図りました。改革は一定の成果をあげるものの、真面目すぎる性格が災いして改革は頓挫します。

松平定信の自画像
出典:Wikipedia

寛政の改革ばかりが取り上げられがちですが、松平定信は他にも大きな功績を残しています。彼は将軍に最も近い人物の1人であり、白河藩の藩主時代には名君として知られていた人物でもあるのです。

この記事では、松平定信の生涯を年表にまとめつつ、行った改革の内容や子孫、家系図についてご紹介します。

彼の人柄や功績を理解できれば、彼の見方はもちろん、江戸時代への見方も一層深くなりますよ。

松平定信とは?生涯をダイジェスト

名前松平定信
誕生日1759年1月25日
没日1829年6月14日
生地江戸城内の田安邸
(東京都・千代田区)
没地三田にある松山藩の中屋敷
(東京都・港区)
配偶者松平定邦の娘
埋葬場所霊巌寺(東京都・江東区)
徳川将軍家の家紋 丸に三葵
出典:Wikipedia
  • 1759年 0歳 誕生
  • 1774年 15歳 白河藩主・松平定邦の養子となる
  • 1783年 25歳 白河藩の藩主となり、飢饉から藩民を救う
  • 1787年 28歳 老中として寛政の改革に着手
  • 1793年 35歳 失脚し、白河藩の藩政に全力を注ぐ
  • 1801年 43歳 日本最古の公園・南湖を竣工
  • 1812年 54歳 隠居する
  • 1829年 75歳 死去

松平定信が行った改革や子孫、人間関係

幕府の立て直しに寛政の改革を主導

江戸城
出典:Wikipedia

松平定信は1787年から「寛政の改革」に着手しました。当時の日本は浅間山の大噴火や、天明の大飢饉で多くの犠牲者と財政赤字が発生。飢饉で離村する農民も後を絶ちません。更に幕府に対する不満が溜まり、各地で打ちこわしが起きていました。

定信は寛政の改革で「財政赤字の健全化」と「飢饉で荒廃した農村の復興」に尽力を注ぎます。更に「経世済民」の思想に基づいた福祉政策や、朱子学に基づいた教育政策の拡充、国防の充実にも務めていました。

寛政の改革は一定の成果を上げます。改革最初期の幕府の備蓄金は81万両(吉宗の時代には300万両)。この年は飢饉と10代将軍・家治の葬儀に100万両ものお金が必要だったものの、幕府の財政は黒字に回復。更に20万両の備蓄金を残す事が出来たのです。

一方で厳しい倹約令は庶民や幕府内から不満を買います。定信は1793年7月に第11代将軍・徳川家斉に老中解任を言い渡されてしまいます。真面目すぎる性格が災いし、定信は自らの立場を追われたのです。

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田沼意次と対立する

田沼意次像
出典:Wikipedia

定信の前に老中として幕府の改革を主導したのは田沼意次です。定信は田沼と徹底的に対立しました。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、将軍になる資格を持っていました。

しかし定信は白河藩の養子となり、望みは絶たれます。養子斡旋を主導したのは吉宗のもう1人の孫・一橋治済ですが、田沼もこの斡旋に関与していました。定信はその事をずっと恨んでいたのです。

また田沼は商業資本重視で経済の活性化を図ったものの、農業の衰退を招きました。身分制度を重視し保守的な考えを持つ定信にとって、田沼の政策は許せるものではなかったのです。

やがて定信は一橋治済と手を組み、田沼の失脚を成功させます。この頃の幕府は私たちが思う以上にドロドロしています。

ちなみに従来の教科書では「定信は寛政の改革で田沼の政策をことごとく否定した」と書かれている事が多いです。近年の研究では寛政の改革では田沼の政治の良い部分も取り入れており、政策には連続性があった事も指摘されています。

子孫も幕臣として活躍

定信は正室の他に数人の側室がいて、2男6女を儲けています。子孫の中には藩主や幕臣として活躍した者が多くいました。

定信の孫・板倉勝静
出典:Wikipedia

正室の子・松平定永は白河藩の藩主(後に桑名藩に領地替え)として藩の立て直しに尽力。定永の嫡男は桑名藩の藩主に就任し、八男の板倉勝静は備中松山藩7代藩主となりました。勝静は幕末に徳川慶喜に重用される等、優れた見識を持っていたとされます。

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同じく定信の孫・真田幸貫
出典:Wikipedia

側室の子・真田幸貫は信濃松代藩の第8代藩主となり、水野忠邦が主導した天保の改革にも関与しています。彼も名君として知られ、佐久間象山などの有能な人材を登用しました。定信の男子達は江戸時代の存続に大きな影響を与えていたのです。

ちなみに定信の6人の女子達もそれぞれが有力な大名に嫁いでいきました。定信の血を受け継いだ者はたくさんおり、全てを調べ上げる事は出来ません。思わぬ歴史上の人物が、定信と繋がりがあるかもしれませんね。

松平定信の功績

松平定信といえば寛政の改革のイメージが強いですが、それ以外にも様々な功績を残しています。定信が残した功績について解説していきましょう。

功績1「白河藩を飢饉から救う」

復元された白河城
出典:Wikipedia

定信が白河藩の藩主になったのは1783年。東北を中心に天明の大飢饉が発生した頃でした。天明の大飢饉は江戸最大の飢饉と言われ、東北地方では特に惨状を極めました。弘前藩では一冬で8万人、盛岡藩では7万5千人の犠牲者が出ています。

新たな藩主となった定信は、米に余裕のあった分領地・越後から輸送を行いました。更に家臣を江戸や大阪、会津に派遣して米や粟の買い付けや寄付を募ります。それらの農作物を領民に配りました。

定信は他力本願的な政策を行っただけではありません。藩の財政を見直した他、土地の開墾を奨励。自生の方法も考えています。藩を挙げての政策の結果、東北諸藩で餓死者を出さなかったのは上杉治憲の米沢藩、そして松平定信の白河藩だけでした。

この時の手腕が認められ、定信は幕府の老中に駆り出される事になるのです。

功績2「教育や試験制度を拡充し、優秀な人材を輩出した」

昌平坂学問所
出典:Wikipedia

定信は優秀な人材を育成する為に、教育分野の開拓を行います。寛政の改革の一環で幕府直轄の教育機関・昌平坂学問所を立ち上げました。地方から学びにくる留学生の為に寮まで完備しています。

昌平坂学問所では朱子学による登用試験が行われ、ここで優秀な成績を修めた者は幕臣になれます。地方の留学生や庶民や御家人、幅広い層に出世のチャンスがあったのです。昌平坂学問所は寛政の改革が頓挫した後も今後も存続されました。

1853年にはペリー率いる黒船が来航し、幕末という新たな局面を迎えます。この時に幕臣として活躍した若年寄(政務次官)や奉行(局長)らの多くは、昌平坂学問所で抜擢された人材でした。定信の教育制度は幕末にも大きな影響を与えていたのです。

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功績3「日本最古の公園を開放する等、優れた文化人だった」

福島県白河市にある南湖
出典:Wikipedia

定信は1801年に白河藩にある南湖という湖一帯を公園として開放します。公園とは「公衆が憩いや遊びをする場所」です。公園制度が整えられるのは1873年の太政官令であり、南湖園の開放の70年以上も後の事です。

南湖園が「日本最古の公園」とされるのは、この地が身分を超えて集える「士民共楽」という思想のもとに、皆が楽しめるレクリエーション地として開放された事に由来します。南湖園では松や楓、桜が植えられており、風流を楽しむ空間事が出来たのです。

寛政の改革で浮世絵や戯作の締め付けを行った定信ですが、プライベートではこれらの文化にも関心を持っていました。詩歌や浮世絵も手掛け、それらは一定の水準に達しています。定信も1人の文化人として江戸の文化発展に寄与したのです。

寛政の改革の内容から、定信には真面目で堅物というイメージがつきまといます。定信の生涯や人物像を掘り下げると、また別の一面が見えてきますね。

松平定信の名言

久松松平家の家紋・星梅鉢
出典:Wikipedia

国に九年の貯え無くば不足なりと曰う、六年の貯え無くば急なりと曰う、三年の貯えなくば国その国に非ずと曰う

定信は寛政の改革で米の備蓄に力を入れました。この名言からは国民を餓死させないという強い決意が感じられます。

楽しきと思うが楽しきもとなり

楽しいという感情を生み出すには、まず自分が「楽しい」と思う事が大切です。定信も日々の政務を「楽しい」という感情を持つように意識して取り組んでいたのかもしれませんね。

心あて に見し夕顔の 花散りて 尋ねぞ迷ふ たそがれの宿

定信は詩歌に優れ、多くの名歌を残しました。上記の詩歌は定信の代表作であり、詩人としての定信を上記の「たそがれ」というフレーズから「たそがれの少将」と呼びます。

真面目な性格とは裏腹に、作風はとても趣を感じさせます。詩歌を嗜む時の定信は、為政者としてのプレッシャーから解放されていたのかもしれません。

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