松平定信は、江戸時代中期に寛政の改革を主導した人物です。飢饉で多くの犠牲者が出る中、定信は寛政の改革で幕府の立て直しを図りました。改革は一定の成果をあげるものの、真面目すぎる性格が災いして改革は頓挫します。
寛政の改革ばかりが取り上げられがちですが、松平定信は他にも大きな功績を残しています。彼は将軍に最も近い人物の1人であり、白河藩の藩主時代には名君として知られていた人物でもあるのです。
この記事では、松平定信の生涯を年表にまとめつつ、行った改革の内容や子孫、家系図についてご紹介します。
彼の人柄や功績を理解できれば、彼の見方はもちろん、江戸時代への見方も一層深くなりますよ。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
松平定信とは?生涯をダイジェスト
名前 | 松平定信 |
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誕生日 | 1759年1月25日 |
没日 | 1829年6月14日 |
生地 | 江戸城内の田安邸 (東京都・千代田区) |
没地 | 三田にある松山藩の中屋敷 (東京都・港区) |
配偶者 | 松平定邦の娘 |
埋葬場所 | 霊巌寺(東京都・江東区) |
- 1759年 0歳 誕生
- 1774年 15歳 白河藩主・松平定邦の養子となる
- 1783年 25歳 白河藩の藩主となり、飢饉から藩民を救う
- 1787年 28歳 老中として寛政の改革に着手
- 1793年 35歳 失脚し、白河藩の藩政に全力を注ぐ
- 1801年 43歳 日本最古の公園・南湖を竣工
- 1812年 54歳 隠居する
- 1829年 75歳 死去
松平定信が行った改革や子孫、人間関係
幕府の立て直しに寛政の改革を主導
松平定信は1787年から「寛政の改革」に着手しました。当時の日本は浅間山の大噴火や、天明の大飢饉で多くの犠牲者と財政赤字が発生。飢饉で離村する農民も後を絶ちません。更に幕府に対する不満が溜まり、各地で打ちこわしが起きていました。
定信は寛政の改革で「財政赤字の健全化」と「飢饉で荒廃した農村の復興」に尽力を注ぎます。更に「経世済民」の思想に基づいた福祉政策や、朱子学に基づいた教育政策の拡充、国防の充実にも務めていました。
寛政の改革は一定の成果を上げます。改革最初期の幕府の備蓄金は81万両(吉宗の時代には300万両)。この年は飢饉と10代将軍・家治の葬儀に100万両ものお金が必要だったものの、幕府の財政は黒字に回復。更に20万両の備蓄金を残す事が出来たのです。
一方で厳しい倹約令は庶民や幕府内から不満を買います。定信は1793年7月に第11代将軍・徳川家斉に老中解任を言い渡されてしまいます。真面目すぎる性格が災いし、定信は自らの立場を追われたのです。
田沼意次と対立する
定信の前に老中として幕府の改革を主導したのは田沼意次です。定信は田沼と徹底的に対立しました。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、将軍になる資格を持っていました。
しかし定信は白河藩の養子となり、望みは絶たれます。養子斡旋を主導したのは吉宗のもう1人の孫・一橋治済ですが、田沼もこの斡旋に関与していました。定信はその事をずっと恨んでいたのです。
また田沼は商業資本重視で経済の活性化を図ったものの、農業の衰退を招きました。身分制度を重視し保守的な考えを持つ定信にとって、田沼の政策は許せるものではなかったのです。
やがて定信は一橋治済と手を組み、田沼の失脚を成功させます。この頃の幕府は私たちが思う以上にドロドロしています。
ちなみに従来の教科書では「定信は寛政の改革で田沼の政策をことごとく否定した」と書かれている事が多いです。近年の研究では寛政の改革では田沼の政治の良い部分も取り入れており、政策には連続性があった事も指摘されています。