松平定信はどんな人?生涯・年表まとめ【行った改革や政策、子孫も紹介】

子孫も幕臣として活躍

定信は正室の他に数人の側室がいて、2男6女を儲けています。子孫の中には藩主や幕臣として活躍した者が多くいました。

定信の孫・板倉勝静
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正室の子・松平定永は白河藩の藩主(後に桑名藩に領地替え)として藩の立て直しに尽力。定永の嫡男は桑名藩の藩主に就任し、八男の板倉勝静は備中松山藩7代藩主となりました。勝静は幕末に徳川慶喜に重用される等、優れた見識を持っていたとされます。

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同じく定信の孫・真田幸貫
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側室の子・真田幸貫は信濃松代藩の第8代藩主となり、水野忠邦が主導した天保の改革にも関与しています。彼も名君として知られ、佐久間象山などの有能な人材を登用しました。定信の男子達は江戸時代の存続に大きな影響を与えていたのです。

ちなみに定信の6人の女子達もそれぞれが有力な大名に嫁いでいきました。定信の血を受け継いだ者はたくさんおり、全てを調べ上げる事は出来ません。思わぬ歴史上の人物が、定信と繋がりがあるかもしれませんね。

松平定信の功績

松平定信といえば寛政の改革のイメージが強いですが、それ以外にも様々な功績を残しています。定信が残した功績について解説していきましょう。

功績1「白河藩を飢饉から救う」

復元された白河城
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定信が白河藩の藩主になったのは1783年。東北を中心に天明の大飢饉が発生した頃でした。天明の大飢饉は江戸最大の飢饉と言われ、東北地方では特に惨状を極めました。弘前藩では一冬で8万人、盛岡藩では7万5千人の犠牲者が出ています。

新たな藩主となった定信は、米に余裕のあった分領地・越後から輸送を行いました。更に家臣を江戸や大阪、会津に派遣して米や粟の買い付けや寄付を募ります。それらの農作物を領民に配りました。

定信は他力本願的な政策を行っただけではありません。藩の財政を見直した他、土地の開墾を奨励。自生の方法も考えています。藩を挙げての政策の結果、東北諸藩で餓死者を出さなかったのは上杉治憲の米沢藩、そして松平定信の白河藩だけでした。

この時の手腕が認められ、定信は幕府の老中に駆り出される事になるのです。

功績2「教育や試験制度を拡充し、優秀な人材を輩出した」

昌平坂学問所
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定信は優秀な人材を育成する為に、教育分野の開拓を行います。寛政の改革の一環で幕府直轄の教育機関・昌平坂学問所を立ち上げました。地方から学びにくる留学生の為に寮まで完備しています。

昌平坂学問所では朱子学による登用試験が行われ、ここで優秀な成績を修めた者は幕臣になれます。地方の留学生や庶民や御家人、幅広い層に出世のチャンスがあったのです。昌平坂学問所は寛政の改革が頓挫した後も今後も存続されました。

1853年にはペリー率いる黒船が来航し、幕末という新たな局面を迎えます。この時に幕臣として活躍した若年寄(政務次官)や奉行(局長)らの多くは、昌平坂学問所で抜擢された人材でした。定信の教育制度は幕末にも大きな影響を与えていたのです。

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功績3「日本最古の公園を開放する等、優れた文化人だった」

福島県白河市にある南湖
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定信は1801年に白河藩にある南湖という湖一帯を公園として開放します。公園とは「公衆が憩いや遊びをする場所」です。公園制度が整えられるのは1873年の太政官令であり、南湖園の開放の70年以上も後の事です。

南湖園が「日本最古の公園」とされるのは、この地が身分を超えて集える「士民共楽」という思想のもとに、皆が楽しめるレクリエーション地として開放された事に由来します。南湖園では松や楓、桜が植えられており、風流を楽しむ空間事が出来たのです。

寛政の改革で浮世絵や戯作の締め付けを行った定信ですが、プライベートではこれらの文化にも関心を持っていました。詩歌や浮世絵も手掛け、それらは一定の水準に達しています。定信も1人の文化人として江戸の文化発展に寄与したのです。

寛政の改革の内容から、定信には真面目で堅物というイメージがつきまといます。定信の生涯や人物像を掘り下げると、また別の一面が見えてきますね。

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