松平定信はどんな人?生涯・年表まとめ【行った改革や政策、子孫も紹介】

1784〜1787年 – 25〜28歳「白河藩の藩主になる」

天明の大飢饉は凄惨を極めた
出典:Wikipedia

白河藩の藩主になる

1783年に定信は正式に白河藩の藩主となります。同じ頃に天明の大飢饉が発生し、東北一帯は多くの餓死者が出ました。前年は西日本が凶作で、東北諸藩は江戸や西日本に米を輸送。この年の飢饉に耐えるだけの備蓄がなかった事が餓死者の続出に拍車をかけました。

定信は様々な政策を行い、米の調達に奔走。白河藩の立て直しに尽力します。白河藩は大飢饉で1人の犠牲者も出しませんでした。定信は「若き名君」として賞賛を浴びたのです。結果的に定信は幕閣入りを果たす事に成功しました。

天明の打ちこわし

1787年になると江戸や大阪で「天明の打ちこわし」が発生。田沼政治に対する批判が噴出し、幕府のお膝元である江戸では被害が甚大でした。この頃は田沼意次派と、定信を擁立した反田沼意次派が激しい政権争いをしていました。

この前年に田沼の後ろ盾だった十代将軍・徳川家治が死没。家治には後継がいなかった為、一橋治済の嫡男・家斉が新たな将軍になりました。その経緯もあり、1787年5月に田沼は失脚。8月に定信が老中となり、寛政の改革を主導する事になるのです。

1787〜1793年 – 28〜35歳「寛政の改革に着手」

大田南畝は狂歌で定信を批判した
出典:Wikipedia

寛政の改革に着手

これ以降、定信は「寛政の改革」に着手します。一昔前までは定信は田沼の政策をことごとく否定したとされていました、近年では田沼の政策の良い部分は継承しており、両者の政策には連続性があるとされます。

結果的に幕府の財政は黒字になる等、ある程度の立て直しに成功。福祉政策なども取り入れられる等、画期的な政策も行いました。ただ真面目すぎる定信は様々な倹約令を断行し、皆からの支持を失って行きました。

定信の失脚

1793年7月、定信は海防視察で出張中に老中職の罷免を言い渡されます。家斉と定信の対立は深刻化していたのです。

問題が山積する中の辞任であり、落首では「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と謳われ、その辞任の理由を皆が不思議に感じました。

1794〜1823年 – 36〜66歳「白河藩の藩政に尽力する」

桑名城の石垣
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白河藩の藩政に着手

失脚した定信は白河藩の藩政に専念します。白河藩は山間にあり、冷害に弱い地域であると共に実収入の少ない藩でした。定信は馬の生産等の新たな産業を発展させ、藩の財政を潤したのです。そんな経緯もあり、定信は白河藩の名君として語り継がれています。

1812年に隠居し、家督を長男の定永に譲りました。しかしその後も藩の実権は握り続けていました。ちなみに1823年に白河藩は桑名藩(現・三重県)と領地替えを行なっています。

1823〜1829年 – 66〜72歳「松平定信死去」

松平定信の墓
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松平定信死去

1829年2月頃から定信は風邪をひき、3月には高熱を出しました。当時の定信は江戸にいましたが、4月には江戸一帯を火事が襲います。病床の定信は籠に乗せられて避難するものの、これは定信には堪えるものでした。

屋敷の焼失により定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難し、そこで療養の日々を過ごします。そして6月14日に定信の容体は急変。72歳でその生涯を終えました。

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