アメリカ南北戦争をわかりやすく解説!原因や死者数、与えた影響も紹介

南北戦争の簡単年表

1861年4月13日「南北戦争が勃発」

南北戦争における「第一次ブルランの戦い」の様子
出典:Wikipedia

「血を流すカンザス」事件や1860年の大統領選挙にて奴隷制度に反対するリンカーンが選出される出来事があり、南部の北部に対する戦意は最高潮に達しました。

南部の州は合衆国から脱退して、アメリカ連合国という新たな国家を築いたのです。ジェファーソン・デイヴィスを大統領として、合衆国の要塞を攻撃しました。サムター要塞の戦いです。

北部は南部の海上封鎖をし、経済的な制裁を施しました。また、勃発時は少なかった兵力も約7万5000人にまで増員したため、リンカーン大統領は短期決戦になると確信します。

しかしながら、南部の指揮官たちは優秀で北部の指揮官たちは無能だったために思いのほか苦戦。最初の決戦である「第一次ブルランの戦い」において、南部の強固な姿勢に驚くこととなります。

1862年6月25日〜7月1日「七日間の戦い」

北軍のマクレラン少将(左側)と南軍のリー将軍(右側)
出典:Wikiwand

1862年に始まった「七日間の戦い」では、南部の優秀な指揮官であるリー将軍によって北軍は追いやられました。しかしながら、南軍も無傷とはいかずお互いにかなりの兵力を削がれることになります。

最新の技術を使って最前線にいる将軍と電信で連絡をとっていたリンカーン大統領ですが、何人もの将軍が命令無視をして戦況は混乱してしまいました。そこで、リンカーン大統領は思い切って将軍たちをクビにし、実績がある有能な若者を重要な立場に就任させます。この結果、北軍は徐々に南軍を圧倒していきました。

1863年1月1日「奴隷解放宣言」

奴隷解放宣言の草稿を作成するリンカーン大統領たち
出典:Wikiwand

そして、「奴隷解放宣言」を行います。奴隷制に対する戦いを明確化することで、奴隷制度に反対しているイギリスやフランスの干渉を防いだのです。

その後も、リンカーン大統領は北部の特徴である工業を生かした戦略を行なっていきます。鉄道による物資の補給や電信による前線との連絡を絶えず行い、常に最新の戦場の様子を理解して命令を下していたのです。

このことからも、将軍の優秀さは南部に劣るとしてもリーダーシップに関しては北部のリンカーン大統領が有能だったといえますね。

1863年7月1日「ゲティスバーグの戦い」

ゲティスバーグの戦いの様子
出典:Wikiwand

1863年に起こったゲティスバーグの戦いは、南北戦争史上で最大の戦いとなりました。砲撃が飛び交う激戦であり、戦死者のほとんどが砲撃による攻撃によって亡くなります。

亡くなった多くの戦死者を偲ぶために、1863年11月19日に国立墓地への埋葬が始まりました。その際の式典に呼ばれたリンカーン大統領は次のような感動的なスピーチを行い、北部の人々の士気を改めて復活させたのです。

これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国の神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。

このリンカーン大統領のスピーチは現代にまで受け継がれ、「ゲティスバーグの演説」として世界中の人々に知られるようになりました。

1865年4月9日「南北戦争が終結」

リンカーン大統領
出典:Wikiwand

4年間も続いた南北戦争も北軍の優勢が続き、南部のリー将軍が降伏したことによって北部の勝利が決定付けられて終結することとなります。

北部の勝利には様々なの理由があります。一つには、工業化が進んでいたため武器を自分たちで直せたことが挙げられます。南部は部品の調達も難しく武器自体も手製のものが多かったのです。

そして何よりも、リンカーン大統領のリーダーシップのとれた北部の動きが勝利の秘訣といえるでしょう。立派な将軍が大勢いても、それをうまく扱えるトップの人間がいなければ意味がありません。そういった意味でいえば、リンカーン大統領は政治家としても一人の人間としても素晴らしい人物だったのでしょう。

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