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アメリカ南北線戦争をわかりやすく解説!原因や死者数、与えた影響も紹介

「南北戦争ってどんな争いだったの?」
「戦争の原因は何だったの?」

この記事を訪れた皆さんは、このような疑問を抱いていませんか?

南北戦争(英訳:American Civil War)とは、1861年に起きたアメリカの内戦です。奴隷制度が廃止されるきっかけとなった戦争であり、当時のアメリカ大統領リンカーンの有名な演説でも知られていますね。

南北戦争の様子

南北戦争は「奴隷の解放」だけではなく、産業革命や労働環境の変化など多くの要因が絡み合って起こりました。それゆえに、南北戦争の全体像を理解したくても複雑で難しいと悩んでいる人も多いはず。

この記事では、アメリカで起きた南北戦争を原因、死者数や世界に与えた影響なども交えてわかりやすく解説します。この記事を読めば、南北戦争を網羅的に理解することができますよ。

南北戦争とは

争った期間
1861年4月12日〜1865年4月9日
争った勢力
アメリカ合衆国
(北部)
アメリカ連合国
(南部)
指揮官
エイブラハム・
リンカーン
(アメリカ合衆国の
大統領)
ジェファーソン・
デイヴィス
(アメリカ連合国*の
大統領)
兵力
約2200万人
(海軍:69万8000人)
約900万
(海軍:36万人)
犠牲者の数
36万5000人
(負傷者:28万2000人)
29万人
(負傷者:13万7000人)
アメリカ連合国
1861年から1865年までにアメリカ南部地域の州で形成されていた国家。奴隷制度に反対していたリンカーン大統領の当選を機にアメリカ合衆国から分離する形で成立した。
ジェファーソンが大統領となったが、南北戦争で北部のアメリカ合衆国が勝利したため、大統領もアメリカ連合国も1865年に消滅している。

南北戦争をわかりやすく説明すると…

南北戦争とは、1861年から1865年にかけて起こったアメリカの内戦です。きっかけは、国の貿易制度と奴隷制度を巡ってアメリカの南部と北部が対立したことにあります。

農業経済を維持したい南部は自由貿易と奴隷制度の存続を望み、商工業による工業経済を進めたい北部は保護貿易と奴隷制度の廃止を望んでいました。

南北戦争はアメリカ社会を大きく変える戦争だった

多くの死傷者を出しながらも、最終的にはリンカーン大統領率いる北部側が勝利。黒人奴隷たちは解放され、アメリカは更なる工業発展を遂げて大国へと成長したのです。

*自由貿易と保護貿易
・自由貿易
国家が輸出入に対して関税などの規制をしない貿易。
・保護貿易
国内産業の発展を促すために保護関税などを課す貿易。

南部と北部の違い

 南部北部
経済体制プランテーション
農業
(モノカルチャー
経済*)
商工業
(資本主義経済)
貿易体制自由貿易保護貿易
奴隷制度に
対する見解
賛成反対
連邦制度に
対する見解
反対
(分離的な独立
を目指す)
賛成
(国家の統一
を目指す)

南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。

痛々しい傷を持つ黒人奴隷
出典:Wikiwand

南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。

特に北部のミシシッピー州は工業が盛んだった

一方で北部は産業革命ならび米英戦争*の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。

農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。

*米英戦争
1812年から1815年にかけて行われたアメリカとイギリスの戦争。この戦争によりイギリス産の工業製品が途絶えたため、アメリカは自国での工業生産に躍起なった。
*モノカルチャー経済
特定の農作物のみを輸出向けに生産する偏った経済のこと。

南北戦争の期間と死者数

南北戦争の戦没者のために国立墓地が建てられた

1861年から1865年という4年間にわたって繰り広げられた南北戦争。その犠牲者はアメリカ史上最大のものでした。

戦死者は南北合わせて約50万人から60万人以上。そのうち、5万人が兵士ではない一般市民でした。戦死者が多い理由としては、動員された兵士の数が多く最新鋭の武器を使っていたことが挙げられます。

当時の南部の人口は900万人、北部の人口は2200万人でした。その中から南軍は90万人で北軍は156万人の兵士を動員。それに加えて性能の良い銃や大砲がより殺戮を過激化させたのです。

今では世界大戦をはじめとする戦没者たちも祀られている

ちなみに、第一次世界大戦の死者数は約11万人、第二次世界大戦の死者数は約32万人。南北戦争は二つの世界大戦よりも倍以上の死者を出した戦争ということになります。

4年間という短い期間で奪われた約50〜60万人もの尊い命。アメリカ人だけでなく全ての世界の人々が彼らの死を理解し、それを偲ばなくてはなりません。

南北戦争が起こった3つの原因

サムター要塞の戦い
出典:Wikiwand

南北戦争勃発の原因として「奴隷制度の有無」が1番よく知られています。しかし、冒頭で述べてきたように南北の対立は「奴隷制度」だけが原因ではありません。もっと多くの複雑な事情が重なり合っているのです。ここでは、それらを大きく3つに分けて紹介します。

  • ①連邦制度を巡る対立
  • ②国内産業の変化
  • ③奴隷制度に対する批判

①連邦制度を巡る対立

南北戦争が起こった原因の1つとして、まず挙げられるのが「連邦制度を巡る対立」です。連邦とは、アメリカに存在する「州」のように自主権を持つ地域で構成された国家を意味しています。

自主権を持つ州で構成されているとはいえ基本的には一つの国家であり、各州ごとに独自の憲法が存在しているものの、国民は共通の憲法である「合衆国憲法」に沿って生活をしなければなりません。

アメリカは連邦国家

しかし、南北戦争以前から、この連邦体制に関して南北で意見が対立。南部は州の自主権を拡大を求め、対する北部は連邦政府の権限を強めてアメリカ国家の統一を目的としていました。

つまり、南部は分離的な独立を求め、北部は全体的な統一を求めていたのです。政治的な視点から見ても、南北は真っ向から意見が分かれていたのですね。

そして、奴隷制に反対するリンカーンがアメリカ大統領に就任すると南部は独立を宣言。独自の国家「アメリカ連合国」を成立し、北部との戦いを開始したのです。

②国内産業の変化

18世紀にイギリスで始まった産業革命は世界に拡大
出典:Wikipedia

「国内産業の変化」も南北戦争の原因として欠かせない事柄になります。18世紀にイギリスで始まった産業革命の波がアメリカにも到来。北部では鉄工業や鉄道の発達とともに資本主義*が広まり、新しい社会構造が確立したのです。

一方で、南部はアメリカ独立戦争前から存在する奴隷制に依存した農業が社会の基盤となっていました。大規模な農園で大量の原材料を栽培するプランテーションが南部経済の中心であり、奴隷と農園の所有者が社会を牛耳っていたと言っても過言ではありません。

北部が産業革命とともに世界の変革を受け入れる中で、南部は保守的で昔ながらの伝統的な社会環境を守ろうとしていたのですね。

*資本主義
雇用主である資本家と被雇用者である労働者によって、商品が生産し利益を得る経済構造のこと。

③奴隷制度に対する批判

脱走奴隷の逮捕を目的とした賞金チラシ
出典:Wikiwand

最後に忘れてはならない南北戦争の原因が「奴隷制度に対する批判」です。アメリカがイギリスの植民地だった頃から続いていた黒人奴隷による労働力は、南北戦争当時の19世紀にも以前と存在していました。

南部のプランテーションは、植民地時代にイギリスへ輸出していたタバコが独立後に綿花へと変わっただけだったのです。つまり、イギリスから独立した後もアメリカ南部だけはイギリスとの従属関係を断ち切れていなかったともいえますね。

しかし、いくら労働力とはいえ人を売り買いすることは人道的ではありません。19世紀初めごろからイギリスやフランスなどヨーロッパ各国が奴隷貿易ならび奴隷制度を廃止していきました。

小説「アンクル・トムの小屋」の挿絵
出典:Wikiwand

そのため、アメリカでも黒人奴隷の所有を認める「奴隷州」と北部が作った所有を認めない「自由州」との境界線が厳しく取り締められるようになります。さらに、黒人奴隷の様子を描いた小説「アンクル・トムの小屋」が発表されるとアメリカ北部の奴隷制度に対する批判は一層強まることとなりました。

アメリカの中央に位置するミズーリ州では、奴隷制度賛成派と奴隷制度反対派が暴力沙汰を起こす事件まで発生。「血を流すカンザス」と呼ばれる事件の発端は、隣のカンザス準州を自由州とするか奴隷州とするかで揉めたことにありました。

最終的にカンザス準州は自由州となり、不満を持った南部側が北部側に攻撃を開始した「サムター要塞の戦い」が勃発。本格的な南北戦争へと発展していったのです。

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