イギリス王室の歴史をわかりやすく解説【家系図・年表付き】

1603年「スコットランド王ジェームズ6世が即位:ステュアート朝の台頭」

ジェームズ6世(またはジェームズ1世)
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エリザベス1世の後継者となったのはジェームズ6世。彼はスコットランド王国ステュアート朝の国王でした。ジェームズ6世が即位したことで、イングランドとスコットランドは同じ君主を持つ同君連合となります。

これによりイギリス王室にはスコットランド起源のステュアート朝が勢力を広げるようになりました。しかし、王の権力は神から授かったものとする「王権神授説」を信仰する国王に国民が反発。ピューリタン革命や名誉革命*を経て、国民が権利を勝ち取りました。

そして、アン女王の治世でスコットランドとイングランドの連合は解かれ、グレートブリテン王国となります。そして、アン女王の死後にはステュアート朝も終わりを迎えました。

*ピューリタン革命と名誉革命

ピューリタン革命とは、王室派と議会派が対立して起こった市民革命です。議会派が勝利しました。名誉革命とは、当時の国王ジェームズ2世を追放して国民の権利を獲得した革命のことです。王位はジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫が継ぎました。

1714年「ジョージ1世が即位:ハノーヴァー朝の誕生」

ジョージ1世
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アン女王の次にイギリス国王となったジョージ1世。彼はドイツの血筋を含む家系ハノーヴァー家の出身でした。ハノーヴァー朝の誕生です。

ジョージ1世は英語が話せず、政治にも無関心でした。政府が国内の政治を行い、「王は君臨すれども統治せず」のような状態が続きます。そして、君主の権力が議会に制限される「立憲君主制」が確立されました。

ハノーヴァー朝時代にイギリスは産業革命や植民地拡大によって全盛期を迎えます。しかし、繁栄を極めたハノーヴァー朝もヴィクトリア女王の死去によって途絶えました。

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1901年「エドワード7世が即位:サクス=コバーク=ゴータ朝の誕生」

エドワード7世
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ヴィクトリア女王の跡を継ぎ、イギリス国王となったエドワード7世。父であるアルバートの名称を取り、サクス=コバーグ=ゴータ朝を開きました。こちらもドイツ由来の王朝です。

放蕩息子と呼ばれたエドワード7世ですが、社交的な一面を活かして外交で有益な成果を出しました。しかし、息子ジョージ5世の時代にはサクス=コバーグ=ゴータ朝は消えていくことになります。

1910年「ジョージ5世が即位:ウィンザー朝の誕生」

ジョージ5世
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エドワード7世の死後、王位を継いだジョージ5世。在位中に第一次世界大戦が勃発し、敵国ドイツ由来の王朝名を改めてウィンザー朝を開きました。戦時中には戦地や病院へ赴いて兵士たちを励まし、戦後は労働党内閣の発足にも寛大な立場を示しています。

しかし、善王であったジョージ5世の死後には少し波乱が続きました。息子のエドワード8世が離婚歴のある女性との結婚のために王位を捨ててしまったのです。そして、弟であるジョージ6世がイギリス国王として即位しました。

突然の即位にも関わらず、ジョージ6世は政務に真摯に取り組みます。第二次世界大戦時には国民を鼓舞するためにラジオでスピーチを行い、空爆を受けても首都ロンドンを離れませんでした。彼もまた父ジョージ5世と同じく、善王だったのです。

1952年「エリザベス2世がイギリス女王として即位」

エリザベス2世
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ジョージ6世の死後、娘のエリザベス2世がイギリス女王として即位。すでに結婚して子供にも恵まれていましたが、女王として公務を次々とこなしています。それは、90代になった現在でも変わりません。

エリザベス2世の在位期間は70年近く、これはイギリス王室最長です。そのためか、今でもイギリス国民問わず世界中から圧倒的な人気を集めています。

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