伊藤計劃にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1 伊藤計劃流「良い映画評論・悪い映画評論の見分け方」
皆さんは映画を見に行く際、あるいは小説や漫画などを買う際に、その作品の評判を気にするでしょうか?
もし気にするという方がいらっしゃれば、何を参考にしてその作品の評判を調べるでしょうか?Twitter、NAVERまとめ、あるいは個人のブログ……。現代の社会には、多くの評価や評論が溢れています。「人類総評論家時代」とも言うべき時代が、今の時代なのかもしれません。
この記事で取り扱っている伊藤計劃も、自身のブログで多くの映画について評論を行い、その知見の鋭さを多くの作家仲間やクリエイターから絶賛されていました。
そんな伊藤がブログに遺した、「この言葉とその類語を使っている評論は”信用できない”」という言葉を、このトピックでは纏めさせていただきます。
- ストーリーが読めてしまうからよくない。
- 「エンターテインメントor芸術」としては素晴らしい
- 人物描写が「浅いor深い」
- テーマが「浅いor深い」
- テーマが「見えてこないor描けていない」
- 社会との関連性が「濃いor薄い」
- ある思想、社会批評が良く描けて「いるorいない」ので「良いor悪い」
- 登場人物に感情移入が「できるorできない」
一見すると「偉そうなこと言いやがって」と思う方もいるかもしれない羅列ですが、冷静に読んでみるとこれらは全て「個人の感じ方による」ところの文章のようです。人物描写の濃い薄いに関しては少々例外的ですが、これも「セリフで語られていないだけで、俳優の演技や喋り方、あるいは口癖や背景描写などで表現されている場合が多々ある」と伊藤は述べています。
もちろん映画の楽しみ方はそれぞれですので、そのような評論が、必ずしも”悪い”というわけではありません。しかし、様々な作品の評判を調べる時に、伊藤計劃が遺したこれらの「信用できない要素」を覚えておくと、「本当に面白い作品」を探し当てるための手掛かりになるかもしれません。
都市伝説・武勇伝2 伊藤計劃独自の文章・その原点
伊藤計劃の作品に初めて触れた方は、ほとんど間違いなく「なんだこの文章は!?」と感じることになるかと思います。
1人称視点の語りにも拘わらず、口語的ではなく文語的で文学的な地の文。”?”マークがほとんど使用されない独特のセリフ回し。造語とルビに装飾された仰々しい文体etc……。明らかに一般的な娯楽小説とは一線を画す要素の目白押しです。
しかし彼のそのような文章の原点は、我々にとっても意外と身近なところにありました。
その原点というのは、なんと「ブログ」。そんな我々にとっても身近なところから「伊藤計劃の世界」は始まったのだと、彼は円城塔との対談で明かしています。彼にとって、その独自の文章表現は、あくまでも「ブログのノリが染みついているもの」だったようです。
伊藤自身が1998年ごろに立ち上げた最初のウェブサイトは、アーカイブ化されて保存されており、2004年より始めた『伊藤計劃:第弐位相』というはてなダイアリーのブログもまた、現在も最後の更新が行われたときのまま、ウェブ上に残り続けています。また、ブログの内容は『伊藤計劃記録』と題され、様々な対談の内容や、寄稿したエッセイなどと纏められたうえで出版されています。様々な”濃い”話が収録されている、伊藤計劃ファン必携の代物です。
独特の文章と重厚すぎるストーリーで、今も尚多くのファンを魅了し続ける伊藤計劃。しかし彼は、いわゆる「超越的な」視点を持った人物ではなく、意外と読者である我々に近い作家だったのかもしれません。
伊藤計劃の略歴年表
1974年10月14日に、東京都に生まれます。家族構成は、父母と妹に関しては確認されていますが、厳密な家族構成は分かっていません。
この頃に千葉八千代松陰高校に入学します。この頃の彼についての記録は、公的には残っていませんが、映画と音楽とマンガを好む、いわゆるオタク少年であったことは、後の作風やエピソードから想像できます。
2浪した末に、伊藤は武蔵野美術大学に進学。2浪の原因について、友人からは「映画とマンガに耽溺しすぎたから」だと言われています。
伊藤は大学では漫画研究会に所属。部誌に様々な作品の「予告編」を掲載するも、「本編」は一向に掲載せず、本編の発表を固辞し続けたそうです。
この年の春の「東京ゲームショー」にて、伊藤は尊敬するゲームクリエイター・小島秀夫との初対面を果たします。小島もまた、熱心に作品の感想を語る伊藤のことを覚え、二人は後に友人関係となるのです。
また、伊藤はこの年に個人サイトを立ち上げます。このサイトで名乗ったハンドルネームこそが、後のペンネームである「伊藤計劃」です。現在サイトそのものは消えてしまっていますが、アーカイブが保存されているため、現在でも伊藤計劃の始まりを見ることは可能となっています。
漫画雑誌『月刊アフタヌーン』主催の漫画賞「アフタヌーン四季賞 冬のコンテスト」にて、佳作を受賞。選考員は、2019年現在『空母いぶき』を連載中の、かわぐちかいじでした。
受賞作である『ネイキッド』は、2015年に発売された『蘇る伊藤計劃』に収録。内容に好き嫌いはありますが、伊藤計劃らしさが見える作品です。
大学を卒業した伊藤は、Webディレクターとして働き始めます。
しかしこの年に、大学時代より患っていた右足の痛みが悪化。診断の結果「ユーイング肉腫」という珍しいガンが見つかり、伊藤は右足の自由を失うこととなりました。
1月、伊藤は「はてなダイアリー」にて『伊藤計劃:第弐位相』というブログを開始。主に映画の評論を行いました。
ブログは現在もウェブ上に残っているほか、インタビューや対談も合わせた全2巻構成の書籍、『伊藤計劃記録』として文庫化されています。
「ユーイング肉腫」の手術から約4年、ガンが左右の肺に転移していることが見つかります。これにより、伊藤は翌年に手術で肺の一部を切除。彼はこの時に「何を失っても生きたい。書きたい物がまだたくさんある」という言葉を残したそうです。
肺ガンが一応の寛解を見せたのとほぼ同時に、彼は処女作である『虐殺器官』の執筆にとりかかります。
執筆に掛けた時間は、なんとわずか10日間。『虐殺器官』はこの年の「小松左京賞最終候補」に残りますが、それには落選。しかし友人である作家・円城塔の言葉をきっかけとした伊藤が、早川書房へ原稿を送ったことにより、翌年に『虐殺器官』が刊行されることになります。
6月にハヤカワSFシリーズJコレクションより『虐殺器官』が刊行。これにより伊藤計劃は名実ともに作家としてデビューを果たします。『虐殺器官』はこの年の「ベストSF2007第1位」や、「ゼロ年代SFベスト1位」に選ばれるなど、伊藤の文壇デビューは華々しいものでした。
しかしこの時期、既に伊藤は入退院を繰り返す生活になっていました。その時の様子については、現在も残る個人ブログ『伊藤計劃:第弐位相』に記録されています。
6月、小島秀夫からの依頼による『メタルギアソリッド4』のノベライズが刊行。12月には『ハーモニー』が刊行され、伊藤計劃の名前が文壇を賑わせる年になりました。しかしこの時、伊藤の全身には既にいくつもがんが転移しており、彼は抗がん剤やモルヒネを用いての、辛い治療の日々を送っていたようです。
しかしその中でも伊藤は、次回作の構想に関して「死者を労働力にした世界を書きます」と、次回作執筆への情熱を口にしていたと、円城塔が『屍者の帝国』のあとがきで語っています。
3月20日、伊藤計劃は病院のベッドの上で、静かにこの世を去りました。享年は34歳。作家としての活動期間はわずか2年と、あまりにも若すぎる死でした。
この年の12月、『ハーモニー』は「日本SF大賞」「第40回星雲賞」「ベストSF2009第1位」を受賞しますが、伊藤自身がその受賞を知ることは、残念なことにできなかったのです。
この年の7月、アレクサンダー・O・スミスによる英訳版が、翻訳SFレーベルの”Haikasoru”より刊行。フィリップ・K・ディック賞の特別賞を受賞しました。
『虐殺器官』の英訳版も、2012年に”Haikasoru”より発売されています。
この年の8月に、伊藤計劃と円城塔の共同名義で『屍者の帝国』が発表されました。前半部分30ページは、伊藤の遺した原稿がそのまま使われ、その後の部分を円城が執筆する形式をとっています。
ノイタミナムービーの企画『Project:Itoh』の公開が開始。第1弾として10月に『屍者の帝国』が。第2弾として11月に『ハーモニー』が公開されました。『虐殺器官』の公開も、本来は11月に予定されていたのですが、担当していたアニメーションスタジオの倒産という事情により、『ハーモニー』が繰り上げで公開。『虐殺器官』は無期限の公開延期という憂き目にあうこととなりました。
また、映画の公開に合わせて、3作品のコミカライズもこの年に続々と刊行。『虐殺器官』『屍者の帝国』は全3巻、『ハーモニー』は全4巻が発売されています。
『虐殺器官』のハリウッド映画化が発表。監督は”復讐3部作”のパク・チャヌクが務めることが発表されています。
しかし続報は出ておらず、ファンの間では続報の発表が待ち望まれているところです。
この年の2月、公開中止も危ぶまれていた『虐殺器官』が満を辞して公開。多くのファンが歓喜に沸き、新たな伊藤計劃ファンが多数生まれることとなりました。
惜しまれた早逝の後も高まり続ける、伊藤計劃の人気。彼の”計劃”はこれからも続いて行きそうです。
伊藤計劃の具体年表
1974年 – 0歳「東京都に生を受ける」
伊藤計劃の誕生
伊藤計劃は1974年の10月14日、東京都に生を受けました。伊藤計劃というのは勿論ペンネームであり、本名は伊藤聡でした。
家族構成は、両親と3つ年下の妹がいることは没後の取材などで分かっており、その名前まで明らかにされていますが、存命中の人物であり、不用意に名前を公開することで何らかの迷惑がかかることも懸念されるため、この記事では名前の公開は行いません。
また、この記事の執筆に当たっての資料となった記事には、伊藤の両親と妹の名前が公開されていますが、それらの情報を頼りに『聖地巡り』等を行うことは、ご遺族の迷惑になる可能性がありますので、絶対におやめください。
1989年頃 – 15歳「千葉八千代松陰高校に入学」
高校に入学
この頃、伊藤計劃は千葉八千代松陰高校に入学します。八千代松陰高校の卒業生には、伊藤計劃の他に、お笑い芸人であるジャングルポケットの斉藤慎二などがいます。
高校時代の伊藤については、さほどのエピソードが残っているわけではありません。しかし、彼の後の作風や、ブログにおけるプロフィールの文などから考えるに、映画、文学、音楽、漫画等を愛する、いわゆるオタク少年だったのではないかと思われます。伊藤も後のインタビューで自身のことを「非モテで地味な少年だった」と語っています。
高校入学以前よりSF作品を読んでいたという事もインタビューで語られており、中学時代に「SFとしての意識はせず」筒井康隆(つついやすたか)、小松左京(こまつさきょう)の作品を読んでいたそうです。また、彼の独特の文体は、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』で日本語訳を担当した、黒丸尚の影響があることも、同じインタビューの中で語っています。
1994年頃 – 20歳「武蔵野美術大学美術学部映像学科に入学」
2浪の後、武蔵野美術大学へ
高校を卒業した伊藤は、2年間の浪人生活の後に武蔵野美術大学の美術学部映像学科に入学します。2年間浪人したことについては、友人から「映画に夢中になり過ぎていたから浪人したんだ」と揶揄われていたようです。
大学に進学した伊藤は、漫画研究会に所属。漫画研究会には部誌が存在し、部員たちはこぞって漫画や小説などを寄稿していたとのことです。しかし伊藤は、作品の「予告編」を部誌には寄稿するものの、その本編は一向に寄稿しようとはせず、後輩である漫画家・篠房六郎が「なんか書いたらどうすか?」と執筆を勧めても、「いやぁ、僕はいいっす」と固辞していたというエピソードが残されています。
そんな伊藤の性格について、伊藤の3つ年下の妹は「凄く慎重で完璧主義。ビビりで、人の目を凄く気にしていた」と取材に対して語っています。
そのように作品の発表を避け続けていた一方、伊藤の映画評論の冴えはこの頃から有名だったようで、前述の篠房は「先輩の映画評論は、文字通り視力が違った」「自分がぼんやりとしか見ていなかったものを多角的に捉えて、新しいものの味方を教えてくれた」と、伊藤の映画評論を絶賛しています。
小説家としてではなく、映画評論家としての伊藤計劃は、この頃からその片鱗を発揮していたと言えそうです。
1998年 – 24歳「小島秀夫との出会いと、個人サイトの立ち上げ」
『メタルギア』の生みの親、小島秀夫との出会い
この年の春の東京ゲームショーにて、伊藤はかねてより尊敬していたゲームクリエイターの小島秀夫と知り合うことになります。伊藤は以前より「小島原理主義者」を自称するほどの、小島の作品の熱狂的なファンであり、特に『スナッチャー』という作品を好んでいました。
その出会いはファンとクリエイターの関係性からで、ゲームショーの『メタルギアソリッド』ブースで、伊藤が小島にトレーラーの感想を熱心に語ったことがきっかけだったそうです。あまりにも熱心に感想を語る伊藤の姿は、小島の記憶にも色濃く残ったのでしょう。
伊藤はこのゲームショー以後も、小島に対して度々ファンレターや自身の作った同人作品を送っていたようです。この時期の伊藤が執筆した作品は、そのほとんどが小島作品に関する二次創作であったとも言われています。
初の個人サイト「SPOOKTALE:index」の立ち上げ
小島と知り合ったこの年、伊藤は初の個人サイトである「SPOOKTALE:index」を立ち上げ、更新を開始します。そして、そのサイトで名乗ったハンドルネームこそが、後の彼のペンネームとなる「伊藤計劃」だったのです。
現在、サイトそのものは消えてしまっていますが、アーカイブによって保存が成され、伊藤計劃の始まりを見ることが可能になっています。メカニカルでどこか中2病めいたそのサイトの雰囲気からは、伊藤計劃という人物の原点を、確かに感じることができるでしょう。
1999年 – 25歳「『ネイキッド』にて、アフタヌーン四季賞の佳作を受賞」
漫画作品『ネイキッド』にて、賞を受賞
この年、伊藤は漫画作品『ネイキッド』にて、『月刊アフタヌーン』主催の漫画賞「アフタヌーン四季賞 冬のコンテスト」で佳作を受賞することになります。その時の審査員は、現在『空母いぶき』を連載中の、かわぐちかいじでした。
『ネイキッド』は長らく発表されずにいましたが、2015年に発売された『蘇る伊藤計劃』にて遂に発表。好き嫌いがはっきり分かれる、『虐殺器官』以上に洋画的でハードSF的な世界観の作品ですが、後の伊藤計劃らしさがはっきりと伝わる、ファンには必読の作品となっています。
2001年 – 27歳「右足に「ユーイング肉腫」が見つかる」
闘病生活の始まり
大学を卒業しWebディレクターとして働き始めた伊藤でしたが、それと時を同じくして、大学時代より患っていた右足の痛みが悪化。その痛みはひどく、その頃の伊藤は夜も眠れないような状況だったようです。
伊藤の母は彼を連れて病院を回りましたが、診断は何処の病院も「坐骨神経痛」というもの。しかし、ある日訪れた鍼灸院の盲目の鍼灸師だけが、伊藤の右足の痛みの正体を見抜いたのだと言います。
伊藤の右足の痛みの原因は、「ユーイング肉腫」というガン。骨にできる珍しいガンで、転移することは滅多にないものの、どこかに転移してしまえば手の施しようのないガンでした。そのガンが伊藤の右足の神経を侵していたのです。
すぐに神経を侵していたガンを切除すると、伊藤の右足は「ただそこにぶらさがっているだけ」の状態になってしまったそう。しかしこれは伊藤の闘病生活の始まりに過ぎなかったのです。
小島秀夫からの見舞い
この年の9月、ユーイング肉腫によって入院した伊藤のもとに、小島秀夫が見舞いに訪れたというエピソードが残っています。ファンとクリエイターだった彼らは、この時期になると友人になっていたようです。
小島は見舞いの際に、当時は社外秘だった『メタルギアソリッド2』のカットシーンを持参。その映像を見終わった伊藤は「ゲームが完成するまでは死にません」と口にしたといいます。
その後、一度目の病魔との戦いを乗り越えて退院した伊藤を、小島は『メタルギアソリッド2』の発表会に招待。作品に対する評価は賛否両論がありましたが、伊藤はそれらの声に対し「こんな作品を喜ぶのは俺だけだ!」と、賛否の声を肯定しつつ、作品を擁護しています。
2004年 – 30歳「個人ブログ『伊藤計劃:第弐位相』が開始」
『伊藤計劃:第弐位相』
この年の1月に、伊藤は「はてなダイアリー」で『伊藤計劃:第弐位相』というブログを開始。主に映画やドラマなどに対する評論を行いました。
そのブログは現在も、伊藤が最後に更新した2009年1月7日の書き込みで止まったままウェブ上に残されており、2004年以降に伊藤計劃が辿った足跡や、作品執筆の裏話、あるいは彼の創作論などを無料で読むことができます。
またブログの文章に、様々な対談やインタビュー、寄稿したエッセイなども合わせて収録する形で『伊藤計劃記録』という全2巻の文庫本が、ハヤカワ文庫より発売されています。伊藤計劃の「”公”の声」も「”私”の声」も同時に読むことができる書籍ですので、人物としての伊藤計劃を知りたい方にはおススメのシリーズです。
2005年 – 31歳「肺ガンが発覚」
ガンの転移の発覚と、切除
一度目の病との対峙から4年後、伊藤の体に再びガンが宿っていることが発覚します。右足にあったガンが肺に転移する形のガンであり、これ以降伊藤は、入院と退院を繰り返す、辛い闘病生活を余儀なくされることになるのです。
その手術は翌年に行われ、伊藤はその時点で肺の一部を切除。彼はこの手術が行われたころに、
両足がなくなっても書きたい。僕はこれから20年、30年書きたいことがいっぱいあるから、どうしても、何を失っても生きたい
という、創作への執念を感じさせる言葉を口にしたと、伊藤の母が取材に対して答えています。この頃の伊藤のブログには、(少なくとも表向きは)明るい筆致で闘病の様子が描かれており、ブラックユーモアに優れる伊藤のセンスと、その闘病生活の厳しさを垣間見ることができるようになっています。
扱うジャンルがSFである限りは彼の扱った意識や死の概念、SF的ガジェットもやがては古びていくかもしれません。
しかし、彼の特異なリーダービリティだけは現代の日本SF界における一つの到達点だと思っているのでこれからも読者を獲得し続けるんだろうと思っています。
蠱惑的と表現される乱歩の文体がそうであるように。
片手間で終わっていない素晴らしいまとめだと思いました。お疲れ様でした。