秋葉原通り魔事件の犯人「加藤智大」の生い立ち
冤罪説や共犯説も存在する秋葉原通り魔事件。その犯人とされる「加藤智大」はどんな人物なのでしょうか。この項目では、その生い立ちを簡単に解説します。主なターニングポイントは以下の通りです。
- 母親から異常な教育を受けて育つ
- 転職につぐ転職を繰り返す
- 2ちゃんねるにのめり込む
- 掲示板をなりすましに荒らされる
母親から異常な教育を受けて育つ
加藤智大は1982年9月28日に、青森県五所川原市で生まれました。母親は進学校に進学したものの、大学受験に失敗した経歴を持ち、子ども達に厳しい教育を施します。躾として、青森の冬に薄着のまま放り出すのは当たり前。男女交際や友人と遊ぶ事も禁止します。
母親の教育は子どもの個性を伸ばすのではなく、教師に気に入られる答えを言わせる事。作文や絵画は親の検閲が入り、10秒以内に母親が望んだ答えを言わないと、ビンタをする事もありました。
小中学校時代の加藤は、成績優秀でスポーツ万能でしたが、高校に進学すると綻びが出始めます。県下有数の進学校・県立青森高校に進学しますが、優秀な生徒が集まる中で加藤の成績は埋没。学校の窓ガラスを割る、母親に暴力を振るう等の行動が見られます。
高校進学当初、加藤は北海道大学工学部を志望しました。しかし、3年生の頃には短期大学の志望を希望しており、母親はそんな加藤を見放します。加藤は2001年に、中日本自動車短期大学へ進学しますが、これは母親に対する反抗心もあったようです。
転職につぐ転職を繰り返す
加藤は2003年4月短大を卒業後、母親の資金援助を受けて仙台市のアパートで一人暮らしを始めます。人材派遣会社の派遣を受けて、7月に警備会社へ就職。半年後に準社員に昇格しました。職場には友人もいて、手取りも25万程あり、待遇は悪くありませんでした。
2004年1月から内勤に異動となり、警備業務の割り振り等を任されています。この頃に加藤は母親の資金提供で車を購入していますが、内外装に凝るようになった為、生活は困窮しました。2005年には、金銭的な理由から警備会社を退職します。
加藤は転職を繰り返すようになり、埼玉県や茨城県、青森県などを転々としています。人間関係で揉めていたものの、各職場で友人関係も構築できており、高校時代の友人との付き合いも継続していました。
加藤は社会で孤立した存在ではありませんでした。ただ、2006年8月には周囲に「自殺する」と仄めかすなど、徐々に追い詰められてもいたのです。
2ちゃんねるにのめり込む
そんな加藤は、2006年からネットの掲示板に没頭し始めます。2007年9月にネットの掲示板と面会する為、2週間の休暇届を職場に申請しましたが、それは断られました。加藤は抗議の意味で運送会社を退職。掲示板の投稿者と面会する為、旅行を繰り返しています。
2008年2月頃から、加藤はネット上で「不細工なせいで孤独な男」という人物を演じています。これがネット上でウケた為、「不細工スレの主」として自虐的な書き込みを繰り返しました。
5月になると、派遣会社から「6月末で契約が終了する」と伝えられます。加藤は他の派遣先で就業する事を望んでおり、その事自体に不満はなかったようです。
掲示板をなりすましに荒らされる
5月〜6月にかけて、掲示板が「なりすまし」に荒らされるようになり、加藤は孤独を感じ始めかとつます。加藤は荒らしへの「心理的に攻撃する手段」として、報道されるレベルの事件を起こす事を決意しました。
現実では、職場で自分の作業服が無くなっている事に立腹して職場を無断欠勤。社会で孤立した(と考えた)加藤は、事件当日の午前5時21分に「究極交流掲示板(改)」に新しいスレッドを立てます。そこで事件が起きるまでの間、メッセージを書き込みました。
加藤の最後のメッセージは、12時10分に書き込んだ「時間です」というもの。それから20分後、加藤は秋葉原通り魔事件を起こしたのでした。事件を起こすまでの間、加藤には多くの友人がいたとされます。一方で孤独を感じていた事は事実です。
この状況において、北海道大学准教授の中島岳志氏は以下の考察を残しています。
コミュニケーションが下手で、友達がいない若者はたくさんいる。加藤はうまくやっている方で、もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれない。なのに、加藤は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったこと
Wikipedia
果たして加藤は本当に犯人なのか、そうではないのか、今となってはわかりません。
死刑確定後の加藤智大
加藤の死刑が確定したのは2015年2月17日。そして死刑が執行されたのが2022年7月26日です。この間、加藤は何を考えながら過ごしていたのでしょうか。主な出来事は以下の通りです。
- 手記の出版
- 弟の自殺
- 2022年7月26日に死刑執行
手記の出版
2012年7月、加藤は手記である「解+」を出版します。事件当初、テレビは加藤の犯行動機を「非正規雇用労働者のルサンチマン」と考察しますが、加藤はそれを否定。加藤は事件を、荒らしへの間接的報復だと主張しました。
その後も2014年までの間に、合計4冊の手記を出版。更には、死刑廃止運動の団体が主催する「死刑囚表現展」にも作品を応募します。作品は艦隊コレクションをテーマにしており、話題となりました。
弟の自殺
加藤が獄中で創作や出版に励む中、加藤の家族は地獄のような日々を送ります。加藤には優次さんという弟がいましたが、彼は2014年2月に自殺。世間からの批判や、付き合っていた女性から別れを告げられた事が要因でした。
加藤の両親は離婚し、父親は地元の信用金庫を退職した後で、引きこもり生活を送っています。加藤に歪んだ教育を施した母親もまた、青森の地で引きこもり生活となっています。
2022年7月26日に死刑執行
2022年7月26日、東京拘置所で加藤の刑が執行されました。古川禎久法相は「慎重な検討を加えた上で死刑の執行を命令した」と強調。また「現場を収めた映像などから、加藤死刑囚の単独犯である」とも述べ、死刑を躊躇う事はありませんでした。
毒入りカレー事件や帝銀事件など、冤罪疑惑のある事件は、死刑が執行されない事もあります。加藤の刑執行は、法務省が加藤の単独犯説を支持している事の証明です。
もちろん、加藤に罪を着せて事件の幕引きを図ったと考える事もできます。加藤は本当に犯人なのか、そうではないのか。今となってはわかりません。