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【天才】ニコラ・テスラとはどんな人?エジソンとの関係や名言、生涯を紹介

ニコラ・テスラとは、19世紀末~20世紀初めにかけて活躍した発明家です。

主に電気工学の分野に様々な功績を残しており、日本では「名前を聞いたことがない」という方もいるほどのマイナーな偉人ですが、実際にはテスラが生まれていなければ現代の文明はなかったと言えるほどの、人類にとっての超重要人物なのです。

彼の発明したものは多岐にわたり、一口に紹介することは大変難しいのですが、彼の功績として最も有名なのは、間違いなく「交流電源システムの実用化」だと言えるでしょう。交流電源システムとは、現在の我々が使っている電力供給システムそのものであるため、テスラは「電気というエネルギーを、一般大衆の使えるものへと進化させた」人物だと言えます。そういう意味では、あのエジソンよりも人類文明に貢献している人物だとも言えるでしょう。

この記事は、電気工学マニアの友人から、数年間「テスラの功績」を聞かされ続け、ライターとして本サイトに携わるや否や「テスラについて書け」「テスラについて書け」と催促され続けた筆者が、満を持して執筆させていただきます。

先にも書かせていただいた通り、この記事を読んでテスラの功績を知ることで、いつもの茶の間が違って見えることは間違いありません。是非とも最後までお読みください。

目次

ニコラ・テスラとはどんな人?

名前ニコラ・テスラ
異名雷電博士
誕生日1856年7月10日
没日1943年1月7日(享年86歳)
生地オーストリア帝国・スミリャン
(現在のクロアチア)
没地アメリカ合衆国
ニューヨーク市
マンハッタン
配偶者なし
埋葬場所アメリカ合衆国
ニューヨーク州
ファーンクリフ墓地
主な研究分野電気工学、機械工学
主な発明品交流電力システム
誘導電動機
テスラコイル
テスラタービンなど

ニコラ・テスラの生まれは?

ニコラ・テスラは、1856年の7月10日の早朝に、オーストリア帝国(現在のクロアチア)のスミリャンという村で、セルビア人夫婦の次男として生まれました。

彼は幼少のころから”天才”の名をほしいままにする人物であったらしく、幼い頃から電気技術に興味を示すばかりでなく、言語、音楽、哲学などの様々な分野にも興味を示し、そのことごとくに高い才覚を見せていたと伝わっています。

しかし彼の天才性は、元々の才能によるものだけではなく、彼が5歳の時に亡くなった兄・デンの影響が大きかったようです。

デンは二コラを超えるほどの天才であったと記録されており、そのデンが亡くなったことで、両親や周囲からの期待は全て幼い二コラに向けられることになってしまったのです。幼い二コラは、それらの周囲からの期待に応えるために猛勉強を重ねたらしく、一説では彼のIQは、”240”というとんでもない数値を記録していたとも言われています。

そんな猛勉強の甲斐あって、とりわけ理数の分野で高い才能を見出された二コラでしたが、周囲からのプレッシャーは彼の精神を大きく疲弊させていたようで、二コラは5歳という幼い頃から、たびたび幻覚を伴う強い妄想や、潔癖症などの強迫性障害に苦しめられていたようです。

ニコラ・テスラの性格は?

ニコラ・テスラの性格は、一言で言ってしまうと「とんでもない変わり者」です。現在でも「馬鹿と天才は紙一重」という言葉が使われますが、ニコラにもこの言葉は大いに当てはまると言えます。

交流電源やテスラコイルをはじめとする数多くの天才的な発明品を残し、紛れもない天才発明家として現在の人類の文明に大いに貢献した彼ですが、その性格はエキセントリックで、狂人の域に片足を突っ込むレベルであったと言われています。

そんな彼の奇天烈な性格を示す代表的なエピソードは数多く残っており、中でも代表的なのは、「霊界との交信装置を作ろうとした」「地球を真っ二つに割る計算式を本気で考察した」という2つ。

さすがにこれらの研究は失敗に終わったようですが、テスラはこれらの研究を本気で可能なものと考えていたらしく、一度は失敗に終わった研究を、いつかは再開する気だったとも噂されています。

ニコラ・テスラの発明「交流電源装置」は何が凄いの?

ニコラ・テスラの発明品として最も重要なのは、やはり彼が生涯を通じて研究を重ねた「交流電源装置」でしょう。

勘違いされがちですが、テスラは「電気をエネルギーとして活用し始めた人物」なのではありません。テスラの発明以前も、エジソンによる「直流電源装置」によって、電気は様々な分野のエネルギーとして活用されていました。

では、テスラの発明である「交流電源装置」は、一体何が凄いのでしょうか?

その凄さを端的に言い現わすとしたら、「電力というエネルギーを、一般大衆のエネルギーにまで普及させた」というところに集約されます。

エジソンが提唱し、テスラの発明以前に普及していた「直流方式」の送電方法は、現在で言うところの乾電池による送電と同じです。もちろん「電気をエネルギーとして使える」という点では画期的な発明ですが、電圧や電流の方向が一定であるため、機械の方を送られる電流に合わせて設計する必要があります。

一方で、テスラの発明した「交流方式」の送電方法は、「電圧や電流の流れを変化させられる」という画期的な特長を持っていました。そのため機械設計の自由度が高く、電気を文字通り「エネルギー」として十全に使うことができる方式なのです。つまりテスラの「交流電源装置」は、「電気エネルギーの完全な利用を可能にした装置」と言えるでしょう。

ただ、勘違いしてほしくないのは「直流方式と交流方式は、単純な優劣関係ではない」ということです。

現在の我々が電源として広く活用しているコンセントは、たしかに交流方式の電気エネルギーを用いたシステムですが、電池で動く機械などは、相変わらず直流方式のシステムで動いています。さらにACアダプタなどは、「交流電流を直流電流に変換する」装置であり、現在も様々な場所で直流電流は用いられているのです。

そのため、「テスラはエジソンに勝ったから、テスラはエジソン以上に偉大な発明家だ」というのは、少しばかり短絡的な結論と言わざるを得ません。現代の電気文明は、テスラ一人に支えられているのではなく、エジソンとテスラがいがみ合いながらも、”電力”という一つのものを研究し続けてくれたから成り立っているものなのです。

ニコラ・テスラの他の発明品は?

ニコラ・テスラの発明で最も現代文明に根差しているのは、先のトピックで書いた通り「交流電源システム」です。

しかしテスラの発明品はその他にも多く存在し、現在も我々の生活を支えています。現在の我々の生活を支える、もしかすると今皆さんのすぐ近くにあるかもしれないものも、テスラの発明が原型となっているのです。このトピックでは、その中の代表的な物をいくつか紹介していきましょう。

①ラジオ

情報源としてはテレビやインターネットにとって代わられがちなラジオですが、現在でも災害時の情報源などとして活用されています。実はこれは、テスラが発明した機械なのです。

公式的にはラジオの発明者は、イタリアの発明家・グリエルモ・マルコーニとされています。しかし近年になってその説に疑問が呈され、裁判の結果、テスラがマルコーニよりも早くラジオを開発していたことが認められています。

このような事態が起こった理由には、テスラがラジオの使用料金を国に請求したことや、マルコーニの支援者に、テスラと犬猿の仲で、大衆心理を操ることに長けたエジソンがいたことなどが上げられます。

②電動モーター

非常に多くの電化製品に使用され、我々の生活を文字通りに影から支えている電動モーターも、テスラによる発明品の一つです。テスラがいなければ、現代のような電化製品にあふれた社会は訪れていなかったと言えるでしょう。

③リモートコントロール技術(リモコン、ドローンなど)

我々が毎日、テレビを見る時に当たり前に使っているリモコンも、テスラの発明品の一つです。しかもテスラは、この発明を目標にして研究したのではなく、「ラジオの開発をしていたらなんかできてしまった」という形で実用化にこぎつけたというのですから驚きです。

この技術はテレビのリモコンのような一般家庭向けの製品から、飛行機や船舶などの運輸機械など、全世界的に幅広く活用されています。もしかすると、テスラの発明の中で2番目に現代社会に浸透しているのは、この技術なのかもしれません。

④X線

医療分野の発展を著しく早め、病気の早期発見を可能にしたX線発生装置――つまりはレントゲン検査装置の原型も、テスラの発明によるものです。

もっとも、テスラが発明できたのはその原型までで、現在のX線発生装置と比べると少々原理的に荒い部分が見られるものでした。しかしその発明が、現在の医療の発展を後押しした装置の原型となったことは、疑いようのない事実だと言えます。

番外:霊界交信機、全世界的なエネルギー通信網、反重力システム

これらは全て、テスラが考案しながらも、資金などの様々な外的要因で頓挫してしまった発明品です。

そのどれもがかなり夢物語めいたものであり、現在も実用化はされていませんが、「全世界的なエネルギー通信網」は、「通信網」という限定的な部分だけではありますが実現されています。

もしもテスラに潤沢な資金と時間があり、彼が思うままに研究を進められていたとしたら、もしかすると彼はこれらの発明も実用化させていたのかもしれません。

ニコラ・テスラの女性関係は?

幼い頃から続く精神障害や、病的なほどの潔癖症、「霊界と交信する」等の発言に象徴される浮世離れした性格など、人格面には少々難しい部分を抱えていたテスラですが、彼は意外なほどに女性にモテていたと記録されています。

もっとも、彼自身はあまり恋愛に興味を示していなかったようですが、それでも交際経験自体は記録されています。

その相手は、自身のパトロンであるジョン・モルガンの娘。その時点で話の雲行きは怪しくなってきますが、やはりモルガンの娘にもテスラの奇矯ぶりは耐えきれなかったらしく、テスラとモルガンの娘はすぐに破局。これにより、テスラは恋人とパトロンを同時に失うという苦境を経験することになっています。

そのように、多くの女性からの愛を受けながら、発明という世界に没頭し、テスラは生涯にわたって独身を貫きました。

しかし、晩年のテスラは”あるもの”に恋愛とも友情ともつかない”愛”を注いでいたと記録されています。その”もの”が何なのかについては、ぜひ記事を読み進めて行っていただければと思います。

ニコラ・テスラとエジソンの「電流戦争」とは?

ニコラ・テスラとエジソンの関係性は、一言で言って「凄まじく険悪」なものでした。彼らの確執の事を指して「電流戦争」と表現される辺り、その険悪さは伺い知ることができます。

この「電力戦争」は、若きテスラがエジソンの電力会社に入社したことから始まりました。当時のテスラはエジソンのことを「革新的な発明家」としてとてもリスペクトしており、エジソンの会社に入社したのも、そこで自分の才能を発揮したかったからだと記録されています。

先述している通り、当時の電力技術の最新盤はエジソンの「直流方式」でした。工場の機械類は全て直流方式で稼働しており、エジソンはその設計に誇りを持っていたようです。

しかしテスラは、直流方式での送電に「エネルギーの無駄がある」と考え、エジソンに「交流方式」の発電の導入を直訴。これを認められなかったエジソンは「もし工場の機械群を交流方式で稼働させることができれば、君に5万ドルを支払う」と約束します。

「交流方式で機械を稼働させるのは不可能だ」と考えていたゆえの発言でしたが、テスラは交流方式で工場を稼働させることを成功させてしまい、エジソンに5万ドルの支払いを要求。これに焦ったエジソンは「冗談のつもりだった」と支払いを拒否し、これによって激怒したテスラとの「電流戦争」が始まるのです。

彼らの「戦争」は、後年に至るまで長い間続き、彼らは長い間、お互いの送電方式への批判と反証を繰り返す、子供の喧嘩のようなやり取りを繰り広げています。

そんな彼らのエピソードについては、後のトピックで語らせていただきます。

ニコラ・テスラの死因は?

様々な画期的な発明を作り上げ、人類の文明に大きく貢献したニコラ・テスラ。

しかし残念なことに、彼の研究は当時の社会からはほとんど認められず、晩年のテスラは金銭苦の中で、孤独なホテル暮らしを送っていたようです。

そんな苦しい暮らしを続けていたテスラは、1943年1月7日に、ニューヨーカ―ホテルの一室で、孤独に息を引き取ったと言われています。死因は冠動脈血栓症とされ、彼は亡くなった時点でほとんど無一文の状態だったそうです。

彼の死後、数トンにも及ぶはずの発明品やそれらの設計書は発見されず、「FBIとアメリカに没収された」「ユーゴスラビア経由でソ連に横流しされた」と噂になりましたが、実際はFBIによって複製された後に、母国であるセルビアに送られて、現在ではセルビアのニコラ・テスラ博物館に所蔵されています。

ニコラ・テスラの名言は?

あなたの憎しみを、電気に変換してしまいなさい。そうすれば世界全体が明るくなる。

あまりにも多くのアイデアが頭を通過したので、ほんのわずかしか捕まえられなかった。

天才とは、1%のひらめきと99%のムダな努力だ。

私は実際の作業を性急に進めるような事はしない。まずは頭の中で装置を動かし、改良を行っていく。実際に工場で試験を行うのも思考の上で試すのも、大した違いはないのだ。

昨日の驚異は、今日の一般的な出来事に過ぎません。

現在は彼らのものかもしれないが、未来は私のものだ。

ニコラ・テスラは一体何がすごいのか?

すごさ1「IQ240」の超天才的頭脳

おそらく、数字としてテスラの凄さを最も示せるのは、この部分だろうと思います。「IQ240」というのは、ここ100年や200年どころか、人類の誕生から現在に至るまでの中で10本の指に入ってしまうほどの凄まじい頭脳です。

創作のキャラを引き合いに出すのであれば、シャーロック・ホームズが設定上は「IQ190」、『バットマン』のブルース・ウェインが「IQ192」と言えば、その超人的なIQの凄さは理解しやすいかもしれません。

事実として、あまりにも画期的な発明で、人類の文明レベルを数段階引き上げるような功績を残したニコラ・テスラ。そんな彼がシャーロック・ホームズ以上の頭脳を持っていると言っても、確かに納得できるところかもしれません。

すごさ2.「研究の正しさを証明するため、自分の体を実験材料にする胆力」

創作の世界ではマッドサイエンティストがよくやる事ですが、現実でそれをやれるような人物はそう多くありません。しかしテスラは自分の主張した「交流電源システム」の正しさを証明するために、「自分の体に交流電源から電気を流しながら読書する」というパフォーマンスを披露しています。

最も、テスラがこんなパフォーマンスに走ったのは、前述のエジソンとの確執があってこそ。エジソンによる交流電源へのネガティブキャンペーンへの対抗策として、テスラはこのような手段で、交流電源の安全性をアピールしたのでしょう。

とはいえ、一歩間違えれば確実に死んでしまうほど行為なことには違いなく、テスラが自分の主張する交流電源に、よほどの自身を持っていたことが伺えます。決して真似してはいけない――というより、基本的に真似できない行為ですが、「正しい!」と確信できることを貫き通すその姿は、現在の我々も可能な限り手本にしたいものです。

すごさ3.「徹底的な理論科学の信徒」

エジソンが残した有名な言葉には「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言葉があります。対するテスラはこの言葉を皮肉るように「天才とは、1%のひらめきと99%のムダな努力だ」という言葉を残しています。

エジソンとの確執があったからこその発言でもありますが、実際に何度も実験を行い、何度も失敗を積み重ねながら新たな発見を行っていた実験科学者のエジソンに対し、テスラは何度も思考実験や理論の確認を行い、完全に成功を確信してから実験を行うタイプの理論科学者だったようです。

そのため、テスラの実験にはほとんど無駄な部分やコストが存在しておらず、それ故に彼は様々な分野の研究をひとりで担い、多くの発明を残すことに成功したのでしょう。「1日16時間働く」と公言して、その通りに働いて多くの発明品を残したエジソンとは、この点についても真逆です。

世間的に評価を受けやすいのは、愚直な努力家に見えるエジソンの方ですが、実際にムダやコストを省いて文明を前に勧められるのは、テスラのような理論科学者の方。一概にどちらが良い、悪いと言える問題ではありませんが、テスラのように無駄を極限まで省くやり方も、地味ではありますが評価されるべき事柄だと思えます。

ニコラ・テスラにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ニコラ・テスラの最後の恋」

非常に多くの女性に言い寄られながら、その性格のエキセントリックさからか生涯を独身で過ごしたニコラ・テスラ。

独身のまま晩年を迎えた彼は、周囲から見ると一人寂しいホテル住まいの老人だったようですが、実は彼はそのホテルの中で、生涯最後の恋をしていたと言われています。

その恋の相手というのは、なんと”鳩”。テスラは毎朝自室の窓の外にやってくるメスの鳩に恋をしていたらしく、自分の食費を削ってまでその鳩に餌をやっていたと記録されています。他にも、その鳩が何不自由なく暮らせるための多機能ケージを作ろうとしたとか、その鳩を庇って車に撥ねられたなんていう噂も……。

しかし(あたりまえですが)テスラの恋は実ることなく、その鳩はテスラの住まうホテルのすぐ近くで落命。それにショックを受けたのが決定打となったかは定かではありませんが、テスラがこの世を去ったのは、その鳩の死からすぐのことだったとも言われています。

都市伝説・武勇伝2「フィラデルフィア計画」

フィラデルフィア計画とは、1943年にテスラが責任者となった「レインボー・プロジェクト」の一環として行われたプロジェクトで、「テスラコイルの放電現象によって、艦船の磁場を消失させ、レーダーに映らないステルス艦を作り上げよう」という、アメリカ軍主導の計画でした。

実験はフィラデルフィア沖で、駆逐艦「エルドリッジ」を対象として行われ、テスラコイルの起動と同時に、エルドリッジはレーダーから消滅――するどころか、なんと物理的に消滅し、2500㎞離れたノーフォークに瞬間移動してしまったのだそうです。そして瞬間移動した後の艦内には、まさに惨状が広がっていたと言います。乗組員たちの体は船と混ざり合って一体化しており、体の一部が透明になったまま、半死半生の状態の船員までいたそうです。

と、ここまで書けばわかるように、フィラデルフィア計画というのは、荒唐無稽な都市伝説の一つに過ぎません。事実として、実験に使われたとされる駆逐艦「エルドリッジ」は、1943年当時は地中海を航行中だったため、そもそも実験に参加することすらできていません。

とはいえ、当時のアメリカ軍が「艦船の磁場を消失させてステルス艦を作る」という研究をしていたのは事実。テスラコイルは、オカルト好きの間では「UFOの動力と同じ」と言われているものでもあるため、もしかするとテスラの生涯には、未だ明らかになっていない秘密がまだ隠されているのかもしれません。

ニコラ・テスラの略歴年表

1856年
オーストリア帝国・スミリャンに生まれる
ニコラ・テスラは、この年の7月10日の早朝に、セルビア人夫婦の次男として生を受けました。彼は幼い頃から様々な分野に才能を発揮する神童でしたが、彼以上に優秀な兄・デン・テスラの存在によって、当時はさほど目立った子供ではなかったようです。
1861年
兄・デンの急逝
二コラ以上の神童だったデンが、この年に突然帰らぬ人となりました。これにより、両親や周囲からの期待はニコラに向けられるようになり、ニコラはその期待に応えるために猛勉強を始めます。これによって彼は多くの才能を開花させますが、そのプレッシャーによって、ニコラは生涯にわたって重い精神障害を患うことになってしまいました。
1875年
グラーツ工科大学に進学
グラーツ工科大学に進学した彼は、ある日授業の中で使われた発電機に、エネルギーの損失が起こっていることに気付き、より精度の高い発電機を作ることを構想し始めます。
1882年
「交流電源システム」の原型を組み上げる
テスラが交流電源システムの原型となる「二相交流モーター」を組み上げたのはこの年です。以降彼は、この「二相交流モーター」を原型として、より精度の高い交流電源システムの開発にいそしみます。
1884年
エジソン電灯会社に就職する
交流送電に絶対的な自信を持ったテスラは、この方式を世に広めるために渡米。エジソン電灯会社に採用されます。この頃のテスラはエジソンのことを「革新的で偉大な発明家」と尊敬していたようです。しかし……。
1885年
エジソンとの確執により、エジソン電灯会社を去る
交流送電方式に否定的だったエジソンとの確執により、テスラは半ば追い出される形でエジソン電灯会社を去ることになります。
1887年
テスラ電灯会社を設立。同時に「電流戦争」が始まる
独立してテスラ電灯会社を立ち上げ、独自に交流送電方式の推進活動を始めます。然しそれと同時に、エジソンからテスラへのネガティブキャンペーンも開始。これによって泥沼の「電流戦争」が幕を開けることになるのです。
1888年
発電所に交流送電方式が採用される
アメリカ電子工学会でテスラの行ったデモンストレーションが功を奏し、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所に、交流送電方式の発電機が設置されます。これによって潤沢な資金や研究協力者を得たテスラですが、生来の気難しさが災いし、協力者たちとの関係は長続きしなかったようです。
1893年
シカゴ万博の電力として、交流送電方式が採用される
この年に開催されたシカゴ万博の電力に交流送電方式の発電機が採用され、これで万博の善電力を賄うことに成功しました。

さらにこの年、テスラは無線トランスミッター(ラジオの原型)の開発に成功。研究者としての地位を盤石なものとしていきました。

1901年
無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」の建設が開始
恋人の父親であるジョン・モルガンの援助を受けて、巨大な無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」の建設を開始します。この塔は1905年に完成しますが、恋人との破局によるモルガンとの関係悪化によって資金が不足し、最終的には1917年に撤去されてしまいました。
1916年
エジソン勲章の候補者となるも、授与を辞退
アメリカ電子工学会から、エジソン勲章の授与を打診されますが、テスラはこれに激怒。kの年の授与を拒否し、エジソン勲章を痛烈に批判するコメントを出しています。

しかし翌年にも候補となると、その時はエジソン勲章を授与されているため、人格的にはどうあれ、研究者としてのエジソンの偉大さは、テスラも認めているところだったのかもしれません。

1943年
ニューヨークのホテルで、ひっそりと死去
この年の1月7日、テスラはニューヨークのホテルの一室で事切れているいることが確認されました。この時のテスラはほとんど無一文の状態で、数多くの設計図や発明品も発見されておらず、テスラの死は「FBIの陰謀説」「ソ連による暗殺説」など、多くの噂の的となりました。

ニコラ・テスラの具体年表

1856年 – 0歳「オーストリア帝国・スミリャンに生まれる」

”天才発明家”の誕生

1856年7月10日の早朝、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)の村・スミリャンに、ニコラ・テスラはセルビア人夫婦の次男として生を受けました。家族構成は両親と、”神童”と謳われて多くの人から期待を受けた兄・デン。それに姉二人がおり、後に妹が一人増えることになる、7人家族の次男でした。

”神童”である兄と同様、幼いながらに多くの知識を吸収していく二コラ少年でしたが、この時はまだ兄の有名が強く、二コラ自身が周囲から重い期待をかけられることはほとんどなかったようです。

1861年 – 5歳「兄・デン・テスラの急逝」

兄の死

非常に多くの分野に才能を発揮しながらも、将来に関する期待のほとんどは兄に向いていたことから、ある意味でとても自由に知識を吸収していた二コラ少年。しかしそんな彼を、ある悲劇が襲います。

周囲から将来を嘱望されていた兄・デンがこの年に急逝。これによりテスラ家を継ぐことができる唯一の男子となった二コラには、兄に寄せられていた以上の期待がかけられることになります。

これにより更なる猛勉強に励むことになった二コラは、特に数学の分野で「兄を超えるかもしれない」と称されるほどの才能を発揮。他にも8か国の言語に通じ、音楽や詩作、哲学といった、非常に多くの分野への才能を、幼いながらに開花させていくのです。

才能開花の裏側で…

こうしてテスラ家唯一の男子として、非常に多くの才能を開花させた二コラですが、それらは決してプラスの意味だけをもたらすわけではありませんでした。周囲からの非常に重い期待は、プレッシャーとなって二コラの精神を蝕んでいたのです。

この頃、多くの才能を開花させた代わりに、二コラは5歳という幼さにもかかわらず、妄想と幻覚を伴う重度の精神障害を患ってしまったと言います。

この障害は生涯を通じて治ることはなかったらしく、彼は多くの才能を持つ代わりに、非常に奇矯で風変わりな、エキセントリックな人物とみられる形で成長していくことになります。

1875年 – 19歳「グラーツ工科大学に進学」

グラーツ工科大学で電気工学を学ぶ

重度の精神障害を患いながらも、天才的な頭脳はそのままに成長したテスラは、この年にグラーツ工科大学に進学します。

オーストリアの中でも有数の優秀さを誇る大学であり、一般的な感性からすると非常に厳しく難しい講義が行われていたようですが、それらはテスラにとっては簡単すぎたらしく、テスラは広義の内容についてだけでなく「どうすれば講義で扱っている電機システムをより効率化できるか」を考えていたと言われています。

直流電源装置の”エネルギーの無駄”を発見する

そんなテスラの考えは、ある講義の中でひらめきを見せたようです。

講義で使われていた「グラム発電機(発電機とモーターの機能を併せ持った、直流形式の発電装置)」のモーターが火花を上げていることを見たテスラは、「火花が上がっていると言う事は、そこにはエネルギーの無駄が存在している」と言う事に気付いたのだといいます。

これにより、「直流形式の発電装置では、電気のエネルギーを十分に活用しきれていない」という自説を立てたテスラは、直流形式に代わる発電形式を考え始めます。当初は大学に在学したまま新たな発電機の形式を模索していたテスラでしたが、次第に講義の時間すら惜しむようになったらしく、1878年には大学を中退してしまったようです。

1882年 – 25歳「交流発電装置の原型「二相交流モーター」を開発」

「二相交流モーター」を開発

グラーツ工科大学を中退したテスラは、プラハ大学への留学や、ブダペスト国営電信局、ゼネラル・エレクトリックのフランス法人への就職などを経ながら、新たな発電機の開発を行いました。

そしてその努力が実を結んだのが、1882年。「二相交流モーター」と呼ばれる、世界で初めての交流電流発生装置を生み出したテスラは、以降はこの発明品を原型として、より精度の高い交流形式の発電機を開発していくことになります。

1884年 – 27歳「エジソン電灯会社に入社」

エジソン電灯会社に勤め始める

二相交流モーターを原型とした多くの発電機のプロトタイプを組み上げ、交流方式での発電・送電に絶対的な自信を持ったテスラは、この方式をさらに世に広めるべく単身で渡米。当時の電力供給事業の大家であった「エジソン電灯会社」に就職します。

テスラはエジソンのことをかなり尊敬していたようで、「エジソンの下でなら、革新的な交流発電装置を実用化までこぎつけられるかもしれない」と、相当の期待を持っての入社だったようです。

エジソンとの確執が始まる

しかし、エジソンへの尊敬を胸に入社したテスラの期待は、淡くも打ち砕かれることになります。

当時のエジソン電灯会社が推進していたのは、テスラが「非効率だ」と改善を考えた直流形式の送電。テスラはこれに真っ向から反対し、自身の開発した交流送電方式を推進するようにエジソンに訴えかけました。

しかしエジソンはテスラの意見を聞き入れることなく、むしろテスラを冷遇するようになっていきました。その冷遇ぶりは憎悪すら感じるほどにすさまじく、テスラは数か月の間、給料が支払われないまま働かされていたそうです。

エジソンがここまで「直流方式」での送電にこだわったのは、当時のエジソン電灯会社には、直流送電方式による莫大な特許使用料が入っていたため、その収入がなくなることを恐れたからだとする説が、現在では有力です。

1885年 – 28歳「エジソン電灯会社を去る」

エジソンからの挑戦を受け、これを成功させる

年をまたいだ後もエジソンとテスラの論争は続き、さすがに辟易としたらしいエジソンは、テスラにある挑戦を持ち掛けます。

「直流形式で稼働しているこの工場を、全て交流電源で動かすことに成功したなら、君に5万ドルの賞金をやろう」

勿論エジソンからすると、直流形式の安全性や優位性等を考えたうえでの「成功なんてしないだろう」という考えの下での発言でした。当時の技術においてはまだ新技術である交流電力は、技術基盤が確立されていないため扱いが難しかったため、その部分も加味したうえでの発言だったのでしょう。

しかしテスラは、このエジソンからの挑戦を見事に成功させ、直流形式での送電を基礎として設計された工場を、見事に交流発電で動かしてしまいました。「直流電源を交流電源に置き換えることができる」。それが初めて端的に証明されたのが、この時です。

「冗談だった」発言に激怒し、エジソン電灯会社を去る

こうして交流電源の使用可能性を証明したテスラ。エジソンからの「5万ドルを賞金として与える」という発言もあったため、完全に勝利を確信したテスラは、エジソンの発言に激怒することになります。

「5万ドルを与えるというのは、冗談のつもりで言った」

そう言ってのけたエジソンに、今までのうっ憤も手伝ったテスラは大激怒。とうとうエジソン電灯会社を去ってしまいます。

1887年 – 30歳「テスラ電灯会社を設立」

テスラ電灯会社を設立し、交流発電の推進活動を開始

エジソン電灯会社を辞めてしばらくの間は、様々な職業を転々としながら研究を続けていたテスラ。

しかしそんな彼はそんな苦境の中でも、ジョージ・ウェスティングハウスに代表される理解者を徐々に増やしていき、この年にはようやく自らの会社・「テスラ電灯会社」を設立することになります。

これによって自身の推進する「交流発電システム」を広く世に広める機会を得たテスラは、交流発電のアピール活動を開始。10月には交流発電システムの特許の出願も行い、少なくとも1888年の5月までにはこれも認められたようです。

「電流戦争」の開始

テスラが社会的な地位を得て、電力供給事業に乗り出したことを面白く思わないのは、やはりエジソンです。直流発電システムによる多くの特許収入を得ている彼は、テスラによってその座を奪われることを恐れ、交流発電システムに対する多くのネガティブキャンペーンを展開し始めます。

その中でも代表的なのは、やはり「電気椅子による処刑」の提案でしょう。エジソンは、”交流電力を”用いた電気椅子で、死刑囚に刑を執行することを提案。これをマスコミに意図的に流布させることで、「交流電力は恐ろしいものだ」と大衆の不安を掻き立てたのです。

しかしテスラもただでは引き下がりませんでした。彼は「電気椅子での処刑」を逆手に取る形で、「自分の体に交流電流を流しながら読書をする」という過激なパフォーマンスを展開。「電圧を自由に変圧することができる」という交流電流の強みをアピールしながら、エジソンへの意趣返しを行いました。

彼らのこういった大人げないやり取りは幾年にもわたって続いたらしく、これらのやり取りは「電流戦争」として、今なお多くの創作物の題材として取り上げられています。

1888年 – 31歳「発電所に交流送電方式が採用される」

世界初の「交流送電方式」の発電所が作られる

この年、エジソンとテスラの「電流戦争」の勝敗が決まるような、革新的な出来事が起こりました。

テスラがアメリカ電子工学会で行った、交流発電システムのデモンストレーションが功を奏し、かねてからテスラと協力関係にあった実業家・ジョージ・ウェスティングハウスによって、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所に、交流発電方式のシステムが採用されることになったのです。

これにより、自身の発明の正当性の証明と、多くの研究費用、そして特許使用料と共同研究者を得たテスラ。この時の費用を元手に、超高周波発生装置を開発するなど、端的に言えばキレッキレの状態だったこの年のテスラですが、しかしここで、彼の躍進には一度ストップがかかることになります。

人格的な問題で、ウェスティングハウス社を離れることに

技術者として多くの発明を行い、その発明がようやく広く認められるようになってきたテスラですが、同時に彼の悪い部分も、このあたりで目立ち始めることになってしまいます。

元々重度の精神疾患を抱え、成人してからは異常なほどの潔癖症でもあったというテスラは、共同研究者であるウェスティングハウス社の技術陣の中でもあっという間に孤立。これにより、約1年ほどでウェスティングハウス社を離れることになってしまいました。

しかし、ジョージ・ウェスティングハウスとの交流は個人としては続いていたようで、彼から支払われる莫大な特許使用料は、テスラの研究にとって大きな助けになっていたようです。

1893年 – 36歳「シカゴ万博の電力として、交流送電システムが採用される」

シカゴ万博に交流送電が採用される

1891年には高圧変圧機の開発に成功し、ますます交流送電方式の有用性が世に知らしめられていく中、この年にはいよいよ、一般的な送電システムが「直流方式から交流方式へ」移り変わる、決定的な出来事が起こるのです。

それというのも、この年に開催されたシカゴ万博に、交流送電での電力供給が採用されたという事。ジョージ・ウェスティングハウスの尽力が決定打となったようですが、これによってテスラの開発した「交流送電方式」は、広く世界に知らしめられることとなりました。

この万博内では、回転変流器で直流電流を交流電流に変換し、それによって直流電流用に設計された電車を駆動させるというデモンストレーションも実施され、これによって「一般的な送電方式」の座をかけた「電流戦争」に関しては、テスラの勝利が確定することとなりました。

無線トランスミッターの開発

また、この年には、現在のラジオの原型となった無線トランスミッターの開発にも成功しています。

この年に「電力事業者」としては大成功をおさめ、ある意味で発展の終わりへと行きついてしまったテスラは、以降はこの無線トランスミッターの研究に心血を注ぐようになっていきます。

1901年 – 44歳「「世界システム」ウォーデンクリフ・タワーの建設に着手」

「世界システム」という壮大な構想

シカゴ万博での活躍により、テスラの発明は世界中に広がりを見せました。これによって莫大な収入や、多くの協力者を得たテスラは、それらを惜しみなく使い、ある壮大な構想を実行に移すのです。

その構想というのが、「ニコラ・テスラ世界システム」というシステム構想。自身が開発した無線トランスミッターを活用した、「全世界のエネルギーと通信の送受信を一手に引き受ける」壮大なシステムの構想です。

このシステムに興味を示したのが、モルガン財閥の当主であり、テスラの恋人の父親でもある大事業主・ジョン・モルガン。彼の全面的な協力を得たテスラは、ニューヨーク州のロングアイランドに「ウォーデンクリフ・タワー」という巨大な無線送信塔を建築。

1905年に完成したそれで、大規模な実験を行いますが、周波数が微弱すぎたために失敗しています。徹底的な理論科学者として、目に見える失敗をほとんどしてこなかったテスラにとっては珍しい、完全な失敗がこの実験だと言えるでしょう。

「ウォーデンクリフ・タワー」のその後

テスラ自身は、実験の失敗の後も「世界システム」の研究を続けたかったようですが、ここでも彼は、彼自身の人格的な問題によって苦境を招くことになってしまいます。

実験の失敗とほとんど時を同じくして、ジョン・モルガンの娘とテスラは破局。これによってテスラとモルガンの関係は悪化していき、モルガンはテスラの研究への資金援助を打ち切ってしまうのです。

これによって実験を続けられなくなったテスラは、ウォーデンクリフ・タワーを放棄し、研究を中断。しばらくの間、タワーはロングアイランドに残り続けていたようですが、第1次世界大戦にアメリカが参戦すると、塔そのものも撤去されてしまったそうです。

1916年 – 59歳「エジソン勲章の打診を受けるも、それを辞退」

エジソン勲章を辞退

この年、テスラは数多くの発明の功績をたたえられ、アメリカ電子工学会からエジソン勲章の授与を打診されます。

しかしテスラはその勲章の授与を断固として拒否。「私の体を飾り付けるくらいなら、まずは私の頭脳と発明の数々を認めろ」と、痛烈に勲章について非難の言葉を残しました。

こうしてこの年のエジソン勲章を拒否したテスラですが、翌年の1917年にもう一度打診を受けると、今度は勲章の授与を承諾しています。この変化に関してのテスラの心情の記録は残っていませんが、元々はエジソンを尊敬していただけに、彼の名を冠する勲章を得る事には思うところがあったのかもしれません。

ノーベル賞の受賞候補に?

また、この勲章の打診の1年前には、テスラがノーベル賞の受賞候補になったと言われています。しかし同じ年には、エジソンも候補者として名前が挙がっており、二人とも「エジソンと(テスラと)一緒に受賞するのは嫌だ!」とノーベル賞の受賞を拒否した、という噂にもなっているのです。

この噂に関しては、ノーベル賞の公式サイトを見れば、”嘘”であることが一目瞭然にわかります。エジソンは確かに1915年にノーベル賞の受賞候補となっていますが、対するテスラが候補となっているのは1937年。これだけの時間的な開きがある以上、このエピソードは創作されたものだとみるのが妥当でしょう。

1943年 – 86歳「ニューヨークのホテルで、孤独に息を引き取る」

孤独な晩年の中、ひっそりと息を引き取る

様々な発明品を世に送り出し、人類の文明レベルを文字通りに数歩進めたニコラ・テスラ。しかし晩年の彼の生活は、そんな栄光とは無縁の、孤独に満ちたものだったと言われています。

発明によって得られる特許収入のほとんどを研究につぎ込んでしまったテスラは、晩年には家どころか小遣い程度のお金すら持っておらず、細々と入ってくる特許収入だけを頼みの綱にして、孤独なホテル暮らしを送っていたそうです。

そして、そんな貧しく寂しい暮らしの中で、ニコラ・テスラは静かに息を引き取りました。1943年の1月7日、冠動脈血栓症による死でした。そしてその死は奇しくも、彼が生涯最後の恋をしていたメスの鳩の死から、一週間も経たないうちのものだったとも言われています。

彼の死後、彼が持っていたはずの多くの設計書などは発見されず、「FBIによって押収され、軍の秘密研究に活用されている」「ソ連にわたって、破壊兵器の設計に使われている」等の噂が流れ、一躍語り草となりました。

真実は、「FBIによって押収の後、複製され、その後は本国であるセルビアに返された」というものです。事実、テスラが書き上げた多くの設計書は、セルビアの「ニコラ・テスラ博物館」に所蔵され、現在も展示が行われています。

ニコラ・テスラの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ニコラ・テスラ 秘密の告白 世界システム=私の履歴書 フリーエネルギー=真空中の宇宙

テスラの自伝の翻訳本です。あくまで”自伝”のため、テスラ自身の偏った視点であるところはありますが、その分、ニコラ・テスラの考え方や生涯を追う二は最もふさわしい本であると感じます。

エキセントリックな天才のイメージが強く、実際にかなりの変人エピソードも残っている彼ですが、「適度な運動が重要」「加工食品は良くない」のような、現代の我々にも通じるような言葉もちらほら。

テスラに興味を持っている方だけでなく、「今の自分を変えたい」と思っている方にも読んでほしい一冊です。

知られざる天才 ニコラ・テスラ

ニコラ・テスラのエピソードをまとめた一冊です。

中立的とは言えませんが、テスラにまつわるエピソードが第三者の視点から描かれているため、「テスラの人となり」ではなく「エピソード」が知りたい方に読んでほしい書籍となっています。

未来テクノロジーの設計図 ニコラ・テスラの[完全技術]解説書 高電圧高周波交流電源と無線電力輸送のすべて

オカルトな部分がクローズアップされがちなテスラですが、この本はテスラの”科学”の部分のみを取り上げた、非常に重厚な一冊となっています。

研究者向けの講演会の記録でもあるため、基礎知識はあることが前提なのが厳しい所ですが、電気関係の知識がある方や、これから本気でその方面を目指したい方にはぴったりの本となっています。深く読めば読むほどテスラの凄さがわかる本なので、ぜひとも読んでほしい一冊です。

おすすめの映画

エジソンズ・ゲーム

エジソンとテスラの「電流戦争」を描いた映画です。

偉人として描かれがちなエジソンと、マッドサイエンティストとして描かれがちなテスラのビジネスバトルが描かれ、それぞれの人物の印象が大きく変わること請け合いの映画です。2020年4月に、日本での公開が予定されていますので、劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか?

関連外部リンク

ニコラ・テスラについてのまとめ

テスラコイルのインパクトの強さや、フィラデルフィア計画の不気味さ、さらに本人のエキセントリックな性格も相まって、オカルト的なマッドサイエンティストとして語られがちなニコラ・テスラ。

しかし彼のことを調べていくと、確かに性格はエキセントリックですが、彼はただひたすらに人類の発展を願っていた、間違いなく偉大な科学者であり研究者だったことがわかるでしょう。

冒頭でも書かせていただいた通り、現代の暮らしの中には、テスラの発明によって成り立っている者があふれています。皆さんが今この記事を見ている場所や、あるいは寝起きをする部屋など、そこからテスラの痕跡を探し出してみるのも面白いかもしれません。

それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。