1887年 – 30歳「テスラ電灯会社を設立」
テスラ電灯会社を設立し、交流発電の推進活動を開始
エジソン電灯会社を辞めてしばらくの間は、様々な職業を転々としながら研究を続けていたテスラ。
しかしそんな彼はそんな苦境の中でも、ジョージ・ウェスティングハウスに代表される理解者を徐々に増やしていき、この年にはようやく自らの会社・「テスラ電灯会社」を設立することになります。
これによって自身の推進する「交流発電システム」を広く世に広める機会を得たテスラは、交流発電のアピール活動を開始。10月には交流発電システムの特許の出願も行い、少なくとも1888年の5月までにはこれも認められたようです。
「電流戦争」の開始
テスラが社会的な地位を得て、電力供給事業に乗り出したことを面白く思わないのは、やはりエジソンです。直流発電システムによる多くの特許収入を得ている彼は、テスラによってその座を奪われることを恐れ、交流発電システムに対する多くのネガティブキャンペーンを展開し始めます。
その中でも代表的なのは、やはり「電気椅子による処刑」の提案でしょう。エジソンは、”交流電力を”用いた電気椅子で、死刑囚に刑を執行することを提案。これをマスコミに意図的に流布させることで、「交流電力は恐ろしいものだ」と大衆の不安を掻き立てたのです。
しかしテスラもただでは引き下がりませんでした。彼は「電気椅子での処刑」を逆手に取る形で、「自分の体に交流電流を流しながら読書をする」という過激なパフォーマンスを展開。「電圧を自由に変圧することができる」という交流電流の強みをアピールしながら、エジソンへの意趣返しを行いました。
彼らのこういった大人げないやり取りは幾年にもわたって続いたらしく、これらのやり取りは「電流戦争」として、今なお多くの創作物の題材として取り上げられています。
1888年 – 31歳「発電所に交流送電方式が採用される」
世界初の「交流送電方式」の発電所が作られる
この年、エジソンとテスラの「電流戦争」の勝敗が決まるような、革新的な出来事が起こりました。
テスラがアメリカ電子工学会で行った、交流発電システムのデモンストレーションが功を奏し、かねてからテスラと協力関係にあった実業家・ジョージ・ウェスティングハウスによって、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所に、交流発電方式のシステムが採用されることになったのです。
これにより、自身の発明の正当性の証明と、多くの研究費用、そして特許使用料と共同研究者を得たテスラ。この時の費用を元手に、超高周波発生装置を開発するなど、端的に言えばキレッキレの状態だったこの年のテスラですが、しかしここで、彼の躍進には一度ストップがかかることになります。
人格的な問題で、ウェスティングハウス社を離れることに
技術者として多くの発明を行い、その発明がようやく広く認められるようになってきたテスラですが、同時に彼の悪い部分も、このあたりで目立ち始めることになってしまいます。
元々重度の精神疾患を抱え、成人してからは異常なほどの潔癖症でもあったというテスラは、共同研究者であるウェスティングハウス社の技術陣の中でもあっという間に孤立。これにより、約1年ほどでウェスティングハウス社を離れることになってしまいました。
しかし、ジョージ・ウェスティングハウスとの交流は個人としては続いていたようで、彼から支払われる莫大な特許使用料は、テスラの研究にとって大きな助けになっていたようです。
1893年 – 36歳「シカゴ万博の電力として、交流送電システムが採用される」
シカゴ万博に交流送電が採用される
1891年には高圧変圧機の開発に成功し、ますます交流送電方式の有用性が世に知らしめられていく中、この年にはいよいよ、一般的な送電システムが「直流方式から交流方式へ」移り変わる、決定的な出来事が起こるのです。
それというのも、この年に開催されたシカゴ万博に、交流送電での電力供給が採用されたという事。ジョージ・ウェスティングハウスの尽力が決定打となったようですが、これによってテスラの開発した「交流送電方式」は、広く世界に知らしめられることとなりました。
この万博内では、回転変流器で直流電流を交流電流に変換し、それによって直流電流用に設計された電車を駆動させるというデモンストレーションも実施され、これによって「一般的な送電方式」の座をかけた「電流戦争」に関しては、テスラの勝利が確定することとなりました。
無線トランスミッターの開発
また、この年には、現在のラジオの原型となった無線トランスミッターの開発にも成功しています。
この年に「電力事業者」としては大成功をおさめ、ある意味で発展の終わりへと行きついてしまったテスラは、以降はこの無線トランスミッターの研究に心血を注ぐようになっていきます。
1901年 – 44歳「「世界システム」ウォーデンクリフ・タワーの建設に着手」
「世界システム」という壮大な構想
シカゴ万博での活躍により、テスラの発明は世界中に広がりを見せました。これによって莫大な収入や、多くの協力者を得たテスラは、それらを惜しみなく使い、ある壮大な構想を実行に移すのです。
その構想というのが、「ニコラ・テスラ世界システム」というシステム構想。自身が開発した無線トランスミッターを活用した、「全世界のエネルギーと通信の送受信を一手に引き受ける」壮大なシステムの構想です。
このシステムに興味を示したのが、モルガン財閥の当主であり、テスラの恋人の父親でもある大事業主・ジョン・モルガン。彼の全面的な協力を得たテスラは、ニューヨーク州のロングアイランドに「ウォーデンクリフ・タワー」という巨大な無線送信塔を建築。
1905年に完成したそれで、大規模な実験を行いますが、周波数が微弱すぎたために失敗しています。徹底的な理論科学者として、目に見える失敗をほとんどしてこなかったテスラにとっては珍しい、完全な失敗がこの実験だと言えるでしょう。
「ウォーデンクリフ・タワー」のその後
テスラ自身は、実験の失敗の後も「世界システム」の研究を続けたかったようですが、ここでも彼は、彼自身の人格的な問題によって苦境を招くことになってしまいます。
実験の失敗とほとんど時を同じくして、ジョン・モルガンの娘とテスラは破局。これによってテスラとモルガンの関係は悪化していき、モルガンはテスラの研究への資金援助を打ち切ってしまうのです。
これによって実験を続けられなくなったテスラは、ウォーデンクリフ・タワーを放棄し、研究を中断。しばらくの間、タワーはロングアイランドに残り続けていたようですが、第1次世界大戦にアメリカが参戦すると、塔そのものも撤去されてしまったそうです。
1916年 – 59歳「エジソン勲章の打診を受けるも、それを辞退」
エジソン勲章を辞退
この年、テスラは数多くの発明の功績をたたえられ、アメリカ電子工学会からエジソン勲章の授与を打診されます。
しかしテスラはその勲章の授与を断固として拒否。「私の体を飾り付けるくらいなら、まずは私の頭脳と発明の数々を認めろ」と、痛烈に勲章について非難の言葉を残しました。
こうしてこの年のエジソン勲章を拒否したテスラですが、翌年の1917年にもう一度打診を受けると、今度は勲章の授与を承諾しています。この変化に関してのテスラの心情の記録は残っていませんが、元々はエジソンを尊敬していただけに、彼の名を冠する勲章を得る事には思うところがあったのかもしれません。
ノーベル賞の受賞候補に?
また、この勲章の打診の1年前には、テスラがノーベル賞の受賞候補になったと言われています。しかし同じ年には、エジソンも候補者として名前が挙がっており、二人とも「エジソンと(テスラと)一緒に受賞するのは嫌だ!」とノーベル賞の受賞を拒否した、という噂にもなっているのです。
この噂に関しては、ノーベル賞の公式サイトを見れば、”嘘”であることが一目瞭然にわかります。エジソンは確かに1915年にノーベル賞の受賞候補となっていますが、対するテスラが候補となっているのは1937年。これだけの時間的な開きがある以上、このエピソードは創作されたものだとみるのが妥当でしょう。
1943年 – 86歳「ニューヨークのホテルで、孤独に息を引き取る」
孤独な晩年の中、ひっそりと息を引き取る
様々な発明品を世に送り出し、人類の文明レベルを文字通りに数歩進めたニコラ・テスラ。しかし晩年の彼の生活は、そんな栄光とは無縁の、孤独に満ちたものだったと言われています。
発明によって得られる特許収入のほとんどを研究につぎ込んでしまったテスラは、晩年には家どころか小遣い程度のお金すら持っておらず、細々と入ってくる特許収入だけを頼みの綱にして、孤独なホテル暮らしを送っていたそうです。
そして、そんな貧しく寂しい暮らしの中で、ニコラ・テスラは静かに息を引き取りました。1943年の1月7日、冠動脈血栓症による死でした。そしてその死は奇しくも、彼が生涯最後の恋をしていたメスの鳩の死から、一週間も経たないうちのものだったとも言われています。
彼の死後、彼が持っていたはずの多くの設計書などは発見されず、「FBIによって押収され、軍の秘密研究に活用されている」「ソ連にわたって、破壊兵器の設計に使われている」等の噂が流れ、一躍語り草となりました。
真実は、「FBIによって押収の後、複製され、その後は本国であるセルビアに返された」というものです。事実、テスラが書き上げた多くの設計書は、セルビアの「ニコラ・テスラ博物館」に所蔵され、現在も展示が行われています。