【天才】ニコラ・テスラとはどんな人?エジソンとの関係や名言、生涯を紹介

ニコラ・テスラの具体年表

1856年 – 0歳「オーストリア帝国・スミリャンに生まれる」

”天才発明家”の誕生

1856年7月10日の早朝、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)の村・スミリャンに、ニコラ・テスラはセルビア人夫婦の次男として生を受けました。家族構成は両親と、”神童”と謳われて多くの人から期待を受けた兄・デン。それに姉二人がおり、後に妹が一人増えることになる、7人家族の次男でした。

”神童”である兄と同様、幼いながらに多くの知識を吸収していく二コラ少年でしたが、この時はまだ兄の有名が強く、二コラ自身が周囲から重い期待をかけられることはほとんどなかったようです。

1861年 – 5歳「兄・デン・テスラの急逝」

兄の死

突然の兄との別れ

非常に多くの分野に才能を発揮しながらも、将来に関する期待のほとんどは兄に向いていたことから、ある意味でとても自由に知識を吸収していた二コラ少年。しかしそんな彼を、ある悲劇が襲います。

周囲から将来を嘱望されていた兄・デンがこの年に急逝。これによりテスラ家を継ぐことができる唯一の男子となった二コラには、兄に寄せられていた以上の期待がかけられることになります。

これにより更なる猛勉強に励むことになった二コラは、特に数学の分野で「兄を超えるかもしれない」と称されるほどの才能を発揮。他にも8か国の言語に通じ、音楽や詩作、哲学といった、非常に多くの分野への才能を、幼いながらに開花させていくのです。

才能開花の裏側で…

プレッシャーに精神を病んでしまう

こうしてテスラ家唯一の男子として、非常に多くの才能を開花させた二コラですが、それらは決してプラスの意味だけをもたらすわけではありませんでした。周囲からの非常に重い期待は、プレッシャーとなって二コラの精神を蝕んでいたのです。

この頃、多くの才能を開花させた代わりに、二コラは5歳という幼さにもかかわらず、妄想と幻覚を伴う重度の精神障害を患ってしまったと言います。

この障害は生涯を通じて治ることはなかったらしく、彼は多くの才能を持つ代わりに、非常に奇矯で風変わりな、エキセントリックな人物とみられる形で成長していくことになります。

1875年 – 19歳「グラーツ工科大学に進学」

グラーツ工科大学で電気工学を学ぶ

グラーツ工科大学

重度の精神障害を患いながらも、天才的な頭脳はそのままに成長したテスラは、この年にグラーツ工科大学に進学します。

オーストリアの中でも有数の優秀さを誇る大学であり、一般的な感性からすると非常に厳しく難しい講義が行われていたようですが、それらはテスラにとっては簡単すぎたらしく、テスラは広義の内容についてだけでなく「どうすれば講義で扱っている電機システムをより効率化できるか」を考えていたと言われています。

直流電源装置の”エネルギーの無駄”を発見する

そんなテスラの考えは、ある講義の中でひらめきを見せたようです。

講義で使われていた「グラム発電機(発電機とモーターの機能を併せ持った、直流形式の発電装置)」のモーターが火花を上げていることを見たテスラは、「火花が上がっていると言う事は、そこにはエネルギーの無駄が存在している」と言う事に気付いたのだといいます。

これにより、「直流形式の発電装置では、電気のエネルギーを十分に活用しきれていない」という自説を立てたテスラは、直流形式に代わる発電形式を考え始めます。当初は大学に在学したまま新たな発電機の形式を模索していたテスラでしたが、次第に講義の時間すら惜しむようになったらしく、1878年には大学を中退してしまったようです。

1882年 – 25歳「交流発電装置の原型「二相交流モーター」を開発」

「二相交流モーター」を開発

モーターの開発に成功する

グラーツ工科大学を中退したテスラは、プラハ大学への留学や、ブダペスト国営電信局、ゼネラル・エレクトリックのフランス法人への就職などを経ながら、新たな発電機の開発を行いました。

そしてその努力が実を結んだのが、1882年。「二相交流モーター」と呼ばれる、世界で初めての交流電流発生装置を生み出したテスラは、以降はこの発明品を原型として、より精度の高い交流形式の発電機を開発していくことになります。

1884年 – 27歳「エジソン電灯会社に入社」

エジソン電灯会社に勤め始める

エジソン
出典:Wikipedia

二相交流モーターを原型とした多くの発電機のプロトタイプを組み上げ、交流方式での発電・送電に絶対的な自信を持ったテスラは、この方式をさらに世に広めるべく単身で渡米。当時の電力供給事業の大家であった「エジソン電灯会社」に就職します。

テスラはエジソンのことをかなり尊敬していたようで、「エジソンの下でなら、革新的な交流発電装置を実用化までこぎつけられるかもしれない」と、相当の期待を持っての入社だったようです。

エジソンとの確執が始まる

しかし、エジソンへの尊敬を胸に入社したテスラの期待は、淡くも打ち砕かれることになります。

当時のエジソン電灯会社が推進していたのは、テスラが「非効率だ」と改善を考えた直流形式の送電。テスラはこれに真っ向から反対し、自身の開発した交流送電方式を推進するようにエジソンに訴えかけました。

入社後、意見がぶつかり始める

しかしエジソンはテスラの意見を聞き入れることなく、むしろテスラを冷遇するようになっていきました。その冷遇ぶりは憎悪すら感じるほどにすさまじく、テスラは数か月の間、給料が支払われないまま働かされていたそうです。

エジソンがここまで「直流方式」での送電にこだわったのは、当時のエジソン電灯会社には、直流送電方式による莫大な特許使用料が入っていたため、その収入がなくなることを恐れたからだとする説が、現在では有力です。

1885年 – 28歳「エジソン電灯会社を去る」

エジソンからの挑戦を受け、これを成功させる

年をまたいだ後もエジソンとテスラの論争は続き、さすがに辟易としたらしいエジソンは、テスラにある挑戦を持ち掛けます。

「直流形式で稼働しているこの工場を、全て交流電源で動かすことに成功したなら、君に5万ドルの賞金をやろう」

勿論エジソンからすると、直流形式の安全性や優位性等を考えたうえでの「成功なんてしないだろう」という考えの下での発言でした。当時の技術においてはまだ新技術である交流電力は、技術基盤が確立されていないため扱いが難しかったため、その部分も加味したうえでの発言だったのでしょう。

しかしテスラは、このエジソンからの挑戦を見事に成功させ、直流形式での送電を基礎として設計された工場を、見事に交流発電で動かしてしまいました。「直流電源を交流電源に置き換えることができる」。それが初めて端的に証明されたのが、この時です。

「冗談だった」発言に激怒し、エジソン電灯会社を去る

エジソンとの関係がきっかけで退職

こうして交流電源の使用可能性を証明したテスラ。エジソンからの「5万ドルを賞金として与える」という発言もあったため、完全に勝利を確信したテスラは、エジソンの発言に激怒することになります。

「5万ドルを与えるというのは、冗談のつもりで言った」

そう言ってのけたエジソンに、今までのうっ憤も手伝ったテスラは大激怒。とうとうエジソン電灯会社を去ってしまいます。

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