【天才】ニコラ・テスラとはどんな人?エジソンとの関係や名言、生涯を紹介

ニコラ・テスラにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ニコラ・テスラの最後の恋」

非常に多くの女性に言い寄られながら、その性格のエキセントリックさからか生涯を独身で過ごしたニコラ・テスラ。

独身のまま晩年を迎えた彼は、周囲から見ると一人寂しいホテル住まいの老人だったようですが、実は彼はそのホテルの中で、生涯最後の恋をしていたと言われています。

晩年の心の支えになった存在

その恋の相手というのは、なんと”鳩”。テスラは毎朝自室の窓の外にやってくるメスの鳩に恋をしていたらしく、自分の食費を削ってまでその鳩に餌をやっていたと記録されています。他にも、その鳩が何不自由なく暮らせるための多機能ケージを作ろうとしたとか、その鳩を庇って車に撥ねられたなんていう噂も……。

しかし(あたりまえですが)テスラの恋は実ることなく、その鳩はテスラの住まうホテルのすぐ近くで落命。それにショックを受けたのが決定打となったかは定かではありませんが、テスラがこの世を去ったのは、その鳩の死からすぐのことだったとも言われています。

都市伝説・武勇伝2「フィラデルフィア計画」

軍と手を組んだフィラデルフィア計画

フィラデルフィア計画とは、1943年にテスラが責任者となった「レインボー・プロジェクト」の一環として行われたプロジェクトで、「テスラコイルの放電現象によって、艦船の磁場を消失させ、レーダーに映らないステルス艦を作り上げよう」という、アメリカ軍主導の計画でした。

実験はフィラデルフィア沖で、駆逐艦「エルドリッジ」を対象として行われ、テスラコイルの起動と同時に、エルドリッジはレーダーから消滅――するどころか、なんと物理的に消滅し、2500㎞離れたノーフォークに瞬間移動してしまったのだそうです。そして瞬間移動した後の艦内には、まさに惨状が広がっていたと言います。乗組員たちの体は船と混ざり合って一体化しており、体の一部が透明になったまま、半死半生の状態の船員までいたそうです。

と、ここまで書けばわかるように、フィラデルフィア計画というのは、荒唐無稽な都市伝説の一つに過ぎません。事実として、実験に使われたとされる駆逐艦「エルドリッジ」は、1943年当時は地中海を航行中だったため、そもそも実験に参加することすらできていません。

とはいえ、当時のアメリカ軍が「艦船の磁場を消失させてステルス艦を作る」という研究をしていたのは事実。テスラコイルは、オカルト好きの間では「UFOの動力と同じ」と言われているものでもあるため、もしかするとテスラの生涯には、未だ明らかになっていない秘密がまだ隠されているのかもしれません。

ニコラ・テスラの略歴年表

1856年
オーストリア帝国・スミリャンに生まれる

ニコラ・テスラは、この年の7月10日の早朝に、セルビア人夫婦の次男として生を受けました。彼は幼い頃から様々な分野に才能を発揮する神童でしたが、彼以上に優秀な兄・デン・テスラの存在によって、当時はさほど目立った子供ではなかったようです。
1861年
兄・デンの急逝

二コラ以上の神童だったデンが、この年に突然帰らぬ人となりました。これにより、両親や周囲からの期待はニコラに向けられるようになり、ニコラはその期待に応えるために猛勉強を始めます。これによって彼は多くの才能を開花させますが、そのプレッシャーによって、ニコラは生涯にわたって重い精神障害を患うことになってしまいました。
1875年
グラーツ工科大学に進学

グラーツ工科大学に進学した彼は、ある日授業の中で使われた発電機に、エネルギーの損失が起こっていることに気付き、より精度の高い発電機を作ることを構想し始めます。
1882年
「交流電源システム」の原型を組み上げる

テスラが交流電源システムの原型となる「二相交流モーター」を組み上げたのはこの年です。以降彼は、この「二相交流モーター」を原型として、より精度の高い交流電源システムの開発にいそしみます。
1884年
エジソン電灯会社に就職する

交流送電に絶対的な自信を持ったテスラは、この方式を世に広めるために渡米。エジソン電灯会社に採用されます。この頃のテスラはエジソンのことを「革新的で偉大な発明家」と尊敬していたようです。しかし……。
1885年
エジソンとの確執により、エジソン電灯会社を去る

交流送電方式に否定的だったエジソンとの確執により、テスラは半ば追い出される形でエジソン電灯会社を去ることになります。
1887年
テスラ電灯会社を設立。同時に「電流戦争」が始まる

独立してテスラ電灯会社を立ち上げ、独自に交流送電方式の推進活動を始めます。然しそれと同時に、エジソンからテスラへのネガティブキャンペーンも開始。これによって泥沼の「電流戦争」が幕を開けることになるのです。
1888年
発電所に交流送電方式が採用される

アメリカ電子工学会でテスラの行ったデモンストレーションが功を奏し、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所に、交流送電方式の発電機が設置されます。これによって潤沢な資金や研究協力者を得たテスラですが、生来の気難しさが災いし、協力者たちとの関係は長続きしなかったようです。
1893年
シカゴ万博の電力として、交流送電方式が採用される

この年に開催されたシカゴ万博の電力に交流送電方式の発電機が採用され、これで万博の善電力を賄うことに成功しました。

さらにこの年、テスラは無線トランスミッター(ラジオの原型)の開発に成功。研究者としての地位を盤石なものとしていきました。

1901年
無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」の建設が開始

恋人の父親であるジョン・モルガンの援助を受けて、巨大な無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」の建設を開始します。この塔は1905年に完成しますが、恋人との破局によるモルガンとの関係悪化によって資金が不足し、最終的には1917年に撤去されてしまいました。
1916年
エジソン勲章の候補者となるも、授与を辞退

アメリカ電子工学会から、エジソン勲章の授与を打診されますが、テスラはこれに激怒。kの年の授与を拒否し、エジソン勲章を痛烈に批判するコメントを出しています。

しかし翌年にも候補となると、その時はエジソン勲章を授与されているため、人格的にはどうあれ、研究者としてのエジソンの偉大さは、テスラも認めているところだったのかもしれません。

1943年
ニューヨークのホテルで、ひっそりと死去

この年の1月7日、テスラはニューヨークのホテルの一室で事切れているいることが確認されました。この時のテスラはほとんど無一文の状態で、数多くの設計図や発明品も発見されておらず、テスラの死は「FBIの陰謀説」「ソ連による暗殺説」など、多くの噂の的となりました。
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