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渋沢栄一の子供や子孫・子女は?家系図から現在の活躍まで徹底調査

渋沢栄一には子孫や子女がいるの?」
「子孫や子女は今どんなことをしているの?」

「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の子孫は、100人以上にのぼると言われています。中でも、

  • 穂積歌子(ほづみうたこ)
  • 渋沢武之助(しぶさわたけのすけ)
  • 渋沢秀雄(しぶさわひでお)
  • 穂積重遠(ほづみしげとお)
  • 渋沢敬三(しぶさわけいぞう)
  • 鮫島純子(さめしまじゅんこ)
  • 渋沢雅英(しぶさわまさひで)
  • 鮫島弘子(さめしまひろこ)
  • 澁澤莉絵留(しぶさわりえる)
  • 澁澤侑哉(しぶさわゆうや)

の10名は世間でも著名な人物として知られています。「そうだったんだ!」と驚かれた方もいるのではないでしょうか。

この記事では、渋沢栄一の血を引く子孫や子女を家系図も交えて紹介します。

渋沢栄一の家系図、子供たち

渋沢栄一の家系図

渋沢家の家系図
出典:ウチコミ

渋沢栄一は1840年2月13日、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれます。父は渋沢市郎右衛門元助、母は渋沢ゑいといいます。栄一は長男で、姉と妹が1人ずついました。

渋沢家は農民でありながら、裕福だったため刀をもつことが許された一族でした。血洗島村には、分家によって「渋沢」を名乗る家が17軒もあり、彼らは家の位置で「東の家(ひがしんち)」「中の家(なかんち)」などと呼び分けられていました。

渋沢栄一が生まれたのは渋沢家のうち「中の家」です。17軒ある渋沢家のなかで2番目に裕福な家だったといわれています。

父と二人の妻

渋沢栄一と後妻・兼子夫人

栄一が生まれる前、「中の家」は跡継ぎがおらず家計も傾きかけていました。そこに「東の家」から婿入りしてきたのが栄一の父・渋沢市郎右衛門元助です。市郎右衛門は商売に秀でた人物で「中の家」を立て直すことに成功します。

市郎右衛門の姉・やへは隣村の下手計村(しもてばかむら)の尾高家に嫁ぎました。やへの息子・尾高惇忠は栄一の学問の師匠となり、論語などの思想を教えます。惇忠の妹・千代は栄一の最初の妻となりました。

いとこである千代との間には5人の子供が生まれましたが、そのうち2人は幼い頃に亡くなっています。また、千代自身も1882年にコレラにかかって42歳で亡くなりました。

千代が亡くなった翌年、渋沢栄一は伊藤兼子と再婚。再婚同士だった兼子との間には4人の子供が生まれています。

7人の子供

最晩年の渋沢栄一と家族

渋沢栄一には、成人まで育った子供が7人いました。最初の妻・千代との間に3人、次の妻・兼子との間に4人です。幼くして亡くなった2人を除いた子供たちは、次の7人になります。

  • 長女:歌子(うたこ)
  • 次女:琴子(ことこ)
  • 長男:篤二(あつじ)
  • 次男:武之助(たけのすけ)
  • 三男:正雄(まさお)
  • 三女:愛子(あいこ)
  • 四男:秀雄(ひでお)

また、渋沢は最初の妻・千代の弟を養子として迎えています。渋沢平九郎(へいくろう)というその人物は、1868年の飯能(はんのう)の戦いで自刃してしまいました。

子孫は全部で100人以上

渋沢栄一は女性関係が派手だった

渋沢栄一は女性関係が派手な人物でした。「妾(めかけ)」と呼ばれる愛人が複数人いて、栄一が妻との間にもうけた子供7人と愛人たちが産んだ子供を合わせると20人以上の子供がいたといわれています。そのため、栄一の血をひく子孫は100人以上にのぼるでしょう。

渋沢栄一は1931年に亡くなるのですが、子孫たちが自分の財産管理で揉めることを心配していました。そのため、1891年に渋沢一族の財産管理をする「澁澤同族会」を結成。1916年にこの同族会は「澁澤同族株式会社」を設立し、もっていた株式や一族の資産をこの会社の保有物としました。

20人以上いるといわれる渋沢栄一の子供たち全員の系譜を追うことは難しいですが、子孫の多くは財界や文壇で大きな声で功績を残しています。現在活躍しているのは栄一のひ孫や玄孫、さらにその子供の世代です。

渋沢栄一の子孫

子孫一覧


名前

栄一との関係

穂積歌子(ほづみうたこ)

長女

渋沢武之助(しぶさわたけのすけ)

次男

渋沢秀雄(しぶさわひでお)

四男

穂積重遠(ほづみしげとお)

孫(長女・歌子の息子)

渋沢敬三(しぶさわけいぞう)

孫(長男・篤二の息子)

鮫島純子(さめしまじゅんこ)

孫(三男・正雄の娘)

渋沢雅英(しぶさわまさひで)

ひ孫(孫・敬三の息子)

鮫島弘子(さめしまひろこ)

玄孫(孫・純子の孫)

澁澤莉絵留(しぶさわりえる)

父方の先祖が渋沢栄一

澁澤侑哉(しぶさわゆうや)

栄一のいとこの子孫

澁澤侑哉(しぶさわゆうや)

モデル・澁澤侑哉

澁澤侑哉さんは渋沢栄一のいとこの子孫にあたる男性です。1998年にアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、現在はファッションモデルとして活躍しています。モデルとしての活動名は「Nasri(ナスリ)」さんです。

2016年に三浦学苑高等学校を卒業後、人気番組「テラスハウス」に出演し、注目を集めました。その後もさまざまな番組やメディアに登場しています。

澁澤莉絵留(しぶさわりえる)

プロゴルファー・澁澤莉絵留

澁澤莉絵留さんは父方の先祖に渋沢栄一をもつプロゴルファーです。渋沢家は本家と分家で漢字が異なり、「澁澤」の字が本家、「渋沢」が分家。つまり莉絵留さんは、本家の方の血筋ということになります。

莉絵留さんは2000年に群馬県太田市に生まれました。兄の影響で9歳からゴルフを始め、福岡・博多区にある沖学園高等学校を卒業後、2019年にプロテストに合格。活躍の可能性を秘めた「ミレニアム世代」の1人として注目を集めています。

鮫島純子(さめしますみこ)

エッセイスト・鮫島純子

エッセイストの鮫島純子さんは渋沢栄一の三男・正雄の次女です。1922年に生まれ、女子学習院の高等科を卒業。20歳で岩倉具視の子孫で海軍文官の鮫島員重(かずしげ)さんと結婚し、3人の子供に恵まれました。

著作に「祖父・渋沢栄一に学んだこと」「毎日が、いきいき、すこやか」「97歳、幸せな超ポジティブ生活」などがあります。渋沢栄一は純子さんが10歳のころまで存命だったそうで、孫にも丁寧に話す優しい祖父だったといわれています。

鮫島弘子(さめしまひろこ)

デザイナー・鮫島弘子

鮫島弘子さんは渋沢栄一の玄孫、鮫島純子さんの孫にあたります。

学生時代に現在美術を専攻し、卒業後はデザイナーとして勤務。けれども自分の作った製品が大量消費される事に疑問をもって退職、2002年に青年海外協力隊としてエチオピアに派遣されます。現地ではファッションショーの企画開催などを行いました。

2012年には株式会社andu ametを設立。エチオピアの羊皮は世界最高峰の品質でしたが、今まではイタリアのブランドに安値で買われていました。弘子さんは羊毛を独自ブランドに育て、現地の人により利益が得られるよう、技術と資本を拡大する事に貢献します。

現在までに3社の現地法人をエチオピアに設立。「自己満足」ではなく、「社会を変える」事を使命として、エチオピアと日本を往復する日々を送っています。

渋沢雅英(しぶさわまさひで)

渋沢栄一記念財団理事長・渋沢雅英

渋沢雅英さんは1925年にロンドンにて誕生。父親は渋沢栄一の孫であり嫡男でもある渋沢敬三です。戦前は歩兵通信隊に所属し、陸軍少尉でした。

戦後は東大に入学し、1956年に株式会社東京食品の駐在員としてロンドンに赴任します。英国王立国際問題研究所客員研究員や、語学学校の設立、アラスカ大学、ポートランド州立大学で教鞭をとるなど、国際的に活躍していました。国内では1994年から2003年まで東京女学館理事長を務めるなど、教育にも携わっています。

また1997年から現在に至るまで、渋沢栄一記念財団の理事長を務めています。2020年元旦にも機関紙「青淵」を刊行し挨拶を述べるなど、年齢を感じさせない活躍を続けていますね。

穂積歌子(ほづみうたこ)

渋沢栄一の長女・穂積歌子の著作「穂積歌子日記」

穂積歌子は渋沢栄一の長女で、法学者・穂積陳重(のぶしげ)の妻となった女性です。穂積陳重は日本の法学にイギリス・ドイツの影響をもたらした人物で、歌子との間には6人の子供がいます。

歌子は著作家としても活動し、「ははその落葉」「穂積歌子日記」などの書籍を出版しました。「ははその落葉」は、若くして亡くなった歌子の母・千代のことを書いた本です。

渋沢武之助(しぶさわたけのすけ)

渋沢武之助は現在の「立飛ホールディングス」の前身「株式会社石川島飛行機製作所」の社長を務めた

渋沢武之助は渋沢栄一の次男で、多くの会社で社長や相談役、取締役を務めた実業家です。武之助の母は栄一の2番目の妻・兼子になります。

石川島飛行機製作所(現在:立飛ホールディングス)の社長や、国産電機(現在:マーレエレクトリックドライブズジャパン)の相談役など、数々の役職を就きました。先にご紹介した「澁澤同族株式会社」では監査役を務めています。

渋沢秀雄(しぶさわひでお)

渋沢秀雄

渋沢秀雄は、渋沢栄一の四男として生まれ、1918年に田園都市株式会社に勤務した人物です。田園調布などの土地開発や鉄道敷設、多摩川園遊園地の運営にも関わっています。戦前には東宝映画や東京宝塚劇場の監査役に就任しました。

戦後は随筆、俳句、油絵などの風流三昧の日々を過ごします。その一方で東映の監査役の就任や、著作権制度審議会委員会にも所属するなど、日本の芸術面で功績を残しました。

生涯を通じて多くの書籍も残していて、軽妙洒脱な文章が特徴です。「父 渋沢栄一」など、渋沢栄一に対する貴重な資料も残しています。1973年には80歳にして絵画個人展を松坂屋で開催するなど、生涯を通じてアクティブに活動しました。

穂積重遠(ほづみしげとお)

穂積重遠

穂積重遠は渋沢栄一の孫で、先にご紹介した穂積歌子の息子です。「日本家族法の父」と呼ばれる法学者で、民法を専門に研究していました。東京帝国大学の教授・法学部長と最高裁判所の判事を務めています。

「法律は民衆のためにあるべき」という考えをもって研究を進めていた重遠は、法律の民衆化・社会化に大きな業績があります。早い時期から法文や判決文の口語化を提唱していました。そのため、日本民法のうち家族法は1947年には現代仮名遣いの口語体が採用されています。

父である法学者・穂積陳重の影響で大学時代から民法や社会問題に関心を深めましたが、幼少期は祖父・渋沢栄一の影響で「論語」に興味をもっていました。家族法に関する著書の多い重遠ですが、なかには「新訳 論語」のような渋沢栄一の影響を受け継ぐ著作もみられます。

渋沢敬三(しぶさわけいぞう)

渋沢敬三

渋沢敬三は、渋沢栄一の長男・篤二の長男として誕生しました。父親の篤二は遊び好きの人であり、1913年に廃嫡されています。栄一から第一銀行を継いで欲しいと袴姿の正装でお願いされるなど、優秀な人物でした。

1926年には第一銀行取締役や澁澤倉庫の取締役に就任。1944年には第16代日銀総裁となりました。戦後は幣原喜重郎内閣の大蔵大臣となり、貯金封鎖や新円切り換えの実施など経済復興に重要な功績を残します。

公職追放の憂き目に遭いつつも、解除後はKDDI(旧国際電信電話)や文化放送の社長などを歴任しました。生涯を通じて関わった企業は実に305にのぼります。

清廉潔白な人柄で、財産税として自邸を納めるなど、国家の為に私財を投げ打ちました。また、経済の深い知識を持ちつつも、民俗学の分野で功績を残しています。民俗学者・柳田國男らと親交を持ち、多くの研究者の資金援助をするなど学術の世界にも貢献しました。

渋沢栄一の子孫についてのまとめ

渋沢栄一の子孫についてご紹介しました。渋沢栄一は判明しているだけで20人ほどの子供がおり、その多くが著名な人物のもとへ嫁いだり、実業家や政治家として活躍しています。

現在活躍されているのは、渋沢雅英さんや鮫島弘子さんなど、曽孫や玄孫の世代です。すべての子孫の足跡を辿るのは困難ですが、渋沢栄一の意志は確実に受け継がれています。

今回の記事を通じて渋沢栄一だけでなく、その子孫の活躍についても興味を持っていただけたら幸いです。

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3 COMMENTS

匿名

鮫島純子さんの読み方が違いますよ。
純子は、「じゅんこ」ではなく、「すみこ」です。
修正願います。

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