小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

ロマノフ王朝とは?成り立ちや最期の結末、財宝、歴代皇帝も紹介

「ロマノフ王朝の歴史は?」
「ロマノフ王朝の皇帝たちは何をした?」
「ロマノフ王朝の都市伝説を知りたい!」

ロシアの歴史上最後の王朝であるロマノフ王朝。初代皇帝であるミハイル・ロマノフの即位によって、ロマノフ王朝と呼ばれることとなりました。

ミハイル・ロマノフ

ロマノフ家の直系の血筋は途絶えたものの、その関係者が跡を継ぐことで、約300年間ロシアに君臨し続けました。そんなロマノフ王朝ですが、300年もの間ずっと安泰だったわけではありません。

この記事ではロマノフ王朝の歴史や歴代の皇帝たちについて解説し、ロマノフ王朝にまことしやかにささやかれる多くの謎をお伝えしていきます。

ロマノフ王朝とは?概要を簡単に解説

ロマノフ王朝

ロマノフ王朝とは

16世紀、当時はリューリク朝がロシアを治めていました。西暦1598年、フョードル1世が亡くなったことでリューリク朝は断絶し、それ以降ロシアは動乱期に入ります。

リューリク朝

その中で16世紀末にフョードル・ニキーチチ・ロマノフが次第に勢力を拡大していきました。彼の息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが西暦1613年に初代ツァーリ(皇帝)として即位します。

当初ロマノフ家はロシア・ツァーリ国(1547年〜1721年まで使用されていたロシア国家の公称)を統治していましたが、後のピョートル1世がロシア帝国の建国を宣言しました。以降ロシアは帝政へと変化し、西暦1917年のロシア革命により倒れるまで続きました。

ロマノフ家とは

ロマノフ家とは、ロシア国内有数の貴族であったこと以外、はっきりとしたことはわかっていません。一説によると、ドイツ、プロイセン地方の血筋ではないかとも言われています。

14世紀のモスクワ大公に仕えていたアンドレイ・カビラという低位の貴族がロマノフ家の先祖ではないかと推測されて、現在は定説となりつつあります。初代ツァーリであるミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にリューリク家の親戚になったことで、徐々にロシア国内での地位を高めていきます。

ツァーリの戴冠

そしてリューリク家最後の皇帝であるイヴァン4世死去後、首都モスクワを占領していたポーランドを撃退します。この功績が讃えられ、ミハイル・ロマノフが西暦1613年にツァーリとして擁立されました。

当時のロシアはアジア各国を植民地化し、多くの富を築いていました。ロマノフ家の財力は、オーストリア王室のハプスブルク家をも超えるほどと言われており、世界一の大富豪の名を欲しいままにしていたのです。

ハプスブルク家

ロマノフ家が代々跡を継ぎ、政治体制が整ってくると、これまで政治を支えてきた貴族階級が没落しはじめました。これによってロマノフ家の一強時代が始まっていきます。

さらに他国の王室との婚姻によって、国々の関係性は強まり、ロシア国内だけでなく、国外においても影響力を強めるようになりました。特にドイツとの関係性が強く、ロマノフ家に見られる血友病はドイツ由来と言われています。

しかしながら、繁栄は長続きしません。20世紀初頭から徐々にロシア国民の不満や反感が表出し始めます。

ロマノフ家は国民の不満を解消しようと政策を打ち出したものの、国民の不満は募っていく一方でした。そしてロシア革命によってロマノフ家は処刑されることとなるのです。

ロシア革命

2008年ロシア革命以降、不名誉の烙印を押されていたロマノフ家でしたが、ロシア最高裁判所によって、正式に名誉を回復させました。ロマノフ家もボリシェビキ政権という社会民主主義による被害者だと認められたのです。

歴代のロシア皇帝

戴冠式の様子

ミハイル

ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ
全名ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1596‐1645年
在位期間西暦1613‐1645年

西暦1612年に首都モスクワを占拠するポーランド軍を撃退し、16歳の若さで初代ツァーリとして即位しました。1618年にポーランドと一時的な講和条約を結び、その間にロシア国内の政治体制を整えることに注力したのです。

1632年にポーランドの内政が混乱した状況を好機と判断したミハイルは、ポーランドに侵攻します。しかし返り討ちにあってしまい、ポーランドに優位な条件での講話を余儀なくされました。

アレクセイ

アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ
全名アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1629‐1676年
在位期間西暦1645‐1676年

アレクセイはミハイル・ロマノフの長男で、父の跡を継ぎ、16歳で2代目ツァーリに即位します。アレクセイの時代に貴族たちの権力が薄れ、ツァーリ自身が自ら政治を執り行うようになっていきました。

アレクセイが行った経済政策は民衆の反乱を度々起き、モスクワ市民の蜂起を招きました。1666年にはモスクワ教会会議を開催し、モスクワ総主教であるニーコンを追放。教会の改革に反対する者は全員を破門にすることを定め、教会分裂を引き起こしました。

フョードル3世

フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1661‐1682年
在位期間西暦1676‐1682年

フョードル3世はアレクセイの3男で、父の跡を継いで即位します。父が追放したニーコンの名誉改革を行った他、特定の宗教派への弾圧を続けました。

1680年にポーランド系貴族のアガフィヤと結婚します。しかしアガフィヤは最初の出産で、子どもとともに命を落とし、その後を追うように20歳の若さで病死しました。

イヴァン5世

イヴァン・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名イヴァン・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1666‐1696年
在位期間西暦1682‐1696年

フョードル3世の弟で、兄の急逝によりツァーリとして擁立され即位しました。生まれながらに弱視や失語症などの障害があり、ツァーリの候補から外れていましたが、政権維持の目的によって即位したという背景があります。

病弱なツァーリを補佐する目的で、弟ピョートル1世が共同統治者になりました。ピョートル1世は病に苦しみながらも、政務に携わる兄の姿に、尊敬していたと伝えられています。

ピョートル1世

ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1672‐1725年
在位期間西暦1682‐1725年

アレクセイの六男にして、ロシアを帝国へと昇華させた人物です。ピョートル1世は大北方戦争や首都サンクトペテルブルグの建設など、ロシアをヨーロッパ列強へと推し進めました。

ピョートル1世はピョートル大帝とも呼ばれ、身長2メートルを超す大男だったと言われています。「活動的な筋肉労働者的な哲人皇帝」と評され、国民から愛されました。

エカチェリーナ1世

マルファ・サムイロヴナ・スカヴロンスカヤ・エカチェリーナ・アレクセーエヴナ
全名マルファ・サムイロヴナ・スカヴロンスカヤ・
エカチェリーナ・アレクセーエヴナ
生没年西暦1684‐1727年
在位期間西暦1725‐1727年

エカチェリーナは農民の娘で、ドイツ人牧師の家に引き取られました。その後大北方戦争が起きたことで彼女はロシア軍の捕虜となり、ロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れてこられました。

その後別の将軍アレクサンドル・メーンシコフの家に召し抱えられ、最終的にピョートル1世に献上されたという異色の経歴を持っています。健康で快活な女性で、治世はわずか2年ほどでしたが、ピョートル1世の改革を引き継ぎ、国政を進めました。

ピョートル2世

ピョートル2世・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名ピョートル2世・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1715‐1730年
在位期間西暦1727‐1730年

ピョートル1世の孫でありながら、父が廃嫡され皇位継承権を失ったことから、悲壮な少年期を過ごしていました。しかしエカチェリーナは1世が死去する直前、次の後継者候補としてピョートル2世を帝位継承権から外すわけにはいかないと考えた貴族たちは、彼を擁立し1727年に即位させました。

ピョートル2世の妻として、当時ロシアで権力を持っていたドルゴルーコフの次女エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァが選ばれました。残念ながら結婚式直前に天然痘にかかり、その日のうちに亡くなってしまったことで、ロマノフ家直系の男子は途絶えたのです。

アンナ

アンナ・イヴァノヴナ・ロマノヴァ
全名アンナ・イヴァノヴナ・ロマノヴァ
生没年西暦1693‐1740年
在位期間西暦1730‐1740年

1730年にピョートル2世が崩御すると、次期後継者探しに貴族たちは奔走しました。そこで名前が挙がったのが、アンナです。彼女はピョートル1世の姪に当たる人物でした。

当時のロシアでは、たとえ皇室であろうと、女性に対しての教育はなされていませんでした。それはアンナも同様で、政治のほとんどは側近に任せていたようです。不運なことに彼女の治世中は凶作や疫病が続き、「ロシア史の暗黒の10ページ」と呼ばれています。

イヴァン6世

イヴァン6世
全名イヴァン・アントノヴィチ
生没年西暦1740‐1764年
在位期間西暦1740‐1741年

イヴァン6世は先代アンナの姉エカチェリーナの孫に当たります。1740年の誕生直後より、アンナに後継者指名を受け、わずか生後2ヶ月にして即位する形となりました。もちろん政治を執り行うことは難しいため、摂政がおかれました。

しかしながら、翌年1741年に宮廷内でクーデターが起き、ピョートル1世の娘であるエリザヴェータが帝位を奪いました。イヴァン6世は廃位となり、エリザヴェータによって徹底的に存在を抹消されました。

エリザヴェータ

エリザヴェータ・ペトロヴナ
全名エリザヴェータ・ペトロヴナ
生没年西暦1709‐1762年
在位期間西暦1741‐1762年

エリザヴェータは大帝の娘ということもあり、軍隊から非常に人気のある女性でした。1741年に自身が幽閉される可能性があることを知ると、イヴァン6世の摂政を捕らえ、イヴァン6世を廃位したのち、自ら帝位を奪取したのです。

エリザヴェータは内政への関心が薄く、その分精力的に外交に取り組みました。特に対外戦争によって領地を獲得していきます。残念ながら、その頃にはエリザヴェータの体は弱っており、侵攻は志半ばで終わりました。

ピョートル3世

カール・ペーター・ウルリヒ
全名カール・ペーター・ウルリヒ
生没年西暦1728‐1762年
在位期間1762年

エリザヴェータがクーデターにより、女帝の地位につくと、ピョートル3世を養子に迎え後継者にしました。しかし皇帝への教育が不足していたピョートル3世は数々の奇行を繰り返します。

ピョートル3世は胸膜炎を患い、水痘や天然痘に次々とかかってしまいました。彼の妻としてエカチェリーナ2世がロマノフ皇室に入りましたが、すぐに2人は仲違いします。ピョートル3世は痔による発作死と伝えられていますが、暗殺説や病死説という声もあり、真相は闇の中です。

エカチェリーナ2世

ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ
全名ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ
生没年西暦1729‐1796年
在位期間西暦1761‐1796年

ピョートル3世の妻にして、彼亡き後その後を継ぎました。プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世とともに啓蒙専制君主の代表と言われています。

ロシア帝国内の領土を拡大させ、ロシア帝国の繁栄を築きました。さらにエカチェリーナ2世にもピョートル1世に与えられた大帝の称号がつけられています。

パーヴェル1世

パーヴェル・ペドロヴィチ
全名パーヴェル・ペドロヴィチ
生没年西暦1754‐1801年
在位期間西暦1796‐1801年

エカチェリーナ2世の長子にして、彼女の崩御後即位しました。母エカチェリーナ2世とは度重なる確執があったようで、即位後は彼女の政策を否定する政治体制をとります。

次第に臣下から不信感を抱かれるようになり、1801年のクーデターによって暗殺されました。現在に至るまで暴君との悪名が絶えない皇帝です。

アレクサンドル1世

アレクサンドル1世
全名アレクサンドル・パヴロヴィチ
生没年西暦1777‐1825年
在位期間西暦1801‐1825年

パーヴェル1世の長子で、父王暗殺後、帝位を継承しました。在位中にナポレオン戦争を経て、強権的な政治を行いました。

アレクサンドル1世は美男子で社交性に富み、知的さや優美さを感じられる佇まいから、ナポレオンは「北方のタルマ(当時の有名な俳優)」と称していました。しかしこれは皮肉が込められており、その実彼の優柔不断な態度や偽善的で狡猾な男と評していたのです。

ニコライ1世

ニコライ・パヴロヴィチ
全名ニコライ・パヴロヴィチ
生没年西暦1796‐1855年
在位期間西暦1825‐1855年

パーヴェル1世の三男で、アレクサンドル1世の急死と、次男コンスタンティン大公の皇位継承権放棄により、即位しました。ニコライ1世は先代アレクサンドル1世同様、強権的な政治に重きをおいていました。

人物像としては軍人のような保守性と厳格さを持ち合わせた人格者であったと伝えられています。特に教育に力を入れており、息子を育てる際に放った「私は息子を人間として育てたいのだ」という言葉は後世にまで伝わっています。

アレクサンドル2世

アレクサンドル・ニコラエヴィチ
全名アレクサンドル・ニコラエヴィチ
生没年西暦1818‐1881年
在位期間西暦1855‐1881年

幼い頃から帝王学を学んでいたアレクサンドル2世は、父ニコライ1世が崩御した後、帝位につきました。アレクサンドル2世は、旧社会的な制度を払拭しようと、農奴制の解体や完全徴兵制など、大改革を推し進めていきます。

しかし改革の裏には、少なからず反感が生じてしまいます。各地でデモや反乱が発生し、アレクサンドル2世はその対応に追われることとなりました。

アレクサンドル3世

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
全名アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
生没年西暦1845‐1894年
在位期間西暦1881‐1894年

兄アレクサンドル2世の後を継いで即位しました。生来の人間味あふれる性格から、多くの臣民に慕われる皇帝だったと伝えらえています。

夫婦仲も良く、アレクサンドル3世は当時にしては珍しく愛人を作りませんでした。1894年に腎不全を発症し、妻マリアの腕の中で静かに息を引き取りました。

ニコライ2世

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
全名ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1868‐1918年
在位期間西暦1894‐1917年

アレクサンドル3世の長男で、父亡き後帝位の座につきました。幼い頃から次期皇帝が確約されていたこともあって、多くの英才教育を受けますが、ニコライ2世自身は勉強熱心ではなかったようです。

日露戦争、第一次世界大戦においてロシア代表として立ち回るも、内政が疎かになったことで、革命勢力の助長、ロシア革命を招きました。1918年に一家ともども処刑され、森に埋められました。

ロマノフ王朝家系図

ロマノフ王朝の歴史

ツァリツィノ公園

西暦1613年:ロマノフ王朝の誕生

先王朝のリューリク朝が滅亡し、ロシア国内の動乱期に入ると、着実に力をつけていたロマノフ家が台頭してきました。ポーランドに占領されていた首都モスクワを奪還し、その功績が広く認められたことでロマノフ家が次期ツァーリの座につくこととなりました。

初代ツァーリはミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ。彼の即位によってロマノフ家の300年の歴史が始まりました。

西暦1682年:ピョートル大帝の即位

初代ツァーリのミハイル、2代目ツァーリのアレクセイと世襲制を取っていたロマノフ家。対外戦争に悩まされながらも確実に帝政の基盤固めをしていました。

アレクセイの末子であるピョートル大帝の即位によって、ロシア国内・国外には大きな風が吹き荒れることとなります。

大北方戦争

大北方戦争

西暦1699年、ピョートル大帝は当時のポーランドやデンマークと反スウェーデン同盟を結びます。1700年にスウェーデンと反スウェーデンの間で北方を巡る戦争(大北方戦争)が起き、覇権争いに参加することとなりました。

ロシア軍はナルヴァの戦いで惨敗するも、その後軍備増強を図ったロシア軍は破竹の勢いで周辺各地を支配しました。ロシア海軍の功績によってバルト海領域の覇権を獲得したものの、つかの間スウェーデン側の勢力が強くなったことで、領海権を手放さざるを得ない事態にまで追い込まれました。

その後も戦争は続き、領地を取ったり、逆に奪い返したりと事態の好転はないまま20年もの月日が経ちます。最終的にはスウェーデンの敗北に終わり、バルト海の覇権だけでなく、スウェーデンの領地を多く奪い取りました。

首都サンクトペテルブルクの建設

サンクトペテルブルク

西暦1703年、港湾都市の建設を推し進めました。ピョートル大帝はこの地に「聖ペトロの街」という意味を込めてサンクトペテルブルクと名付けたのです。

この都市は新しい貿易港として、バルト海交易の中継地点的な役割を担いました。1712年ごろにはサンクトペテルブルクに貴族や商人、職人など多くの国民たちを移住させ、首都として形成していったのです。

西暦1762年:エカチェリーナ2世の即位

エカチェリーナ2世のドレス

ピョートル大帝の死後、後継者問題に悩まされたロマノフ王家。しかし宮廷内のクーデターにより、ドイツから皇室入りしたエカチェリーナ2世が皇帝の座につきます。

女帝として君臨したエカチェリーナ2世は多くの改革や近代化を推し進め、ロマノフ王朝の最盛期を築き上げました。

ロマノフ王朝の最盛期

エカチェリーナ2世は自由経済の促進や、他宗教の信仰を認めるなど、寛容的な思想で政治に当たっていました。さらには教育や医療施設の建築、出版文芸の振興など、近代化政策にも勢力的に着手しました。

新法典の製作にも取り掛かったエカチェリーナ2世でしたが、オスマン帝国との戦争により、こちらは道半ばにして途絶えました。

積極的な対外政策

オスマン帝国

オスマン帝国との戦争に勝利したロシアは、ウクライナやクリミアの土地を奪取します。さらにはポーランドの征服戦争にも関わり、ポーランドを地図から消滅させました。

ロシアの国際的な影響力を高めるため、積極的に対外政策を講じつつ、ヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を築きました。

自由主義の弾圧

基本的には自由主義を認めていたエカチェリーナ2世でしたが、1789年に起きたフランス革命に脅威を感じ、国内の自由主義を弾圧する方針に切り替わっていきます。特に晩年は強く弾圧し、反乱やクーデターを非常に警戒していました。

その甲斐もあってか、在位期間中に反乱が起きることはありませんでした。エカチェリーナ2世の治世ではロシアを敵国とみなす諸国が多かったため、治世の前半を対外政策、後半を国内政策に振り分け、政治を行っていたという見方もあるようです。

西暦1801年:アレクサンドル1世の即位

ペトロパヴロフスク要塞

アレクサンドル1世は祖母であるエカチェリーナ2世の意思を引き継ぎ、近代化を進めていきました。ヨーロッパにおける君主主義の実現に尽力し、ヨーロッパにおける立ち位置を確立しました。

治世初期には立憲君主制の導入や、農奴制の廃止、教育制度の改革など、ロシア国内の問題点に注目し動き出していました。しかし改革は早急すぎると、保守派の反感を招きいたことで、中途半端な改革に終わりました。

アウステルリッツの戦い

西暦1805年、オーストリア領出会ったアウステルリッツ近郊でナポレオン率いるフランス軍と、ロシア・オーストリア連合軍による戦いが起きました。ロシア・オーストリア軍は数的な優位を持って、フランス軍と相対しましたが、ナポレオンの巧妙な作戦により15000人以上もの死者と多数の捕虜を出すなど大敗を喫しました。

この戦いによって、オーストリアは完全にフランスへ屈服し、オーストリアの皇帝フランツ2世は退位。国の解体という事態をもたらしました。ロシアも多くの兵士を失う痛手を負いました。

祖国戦争

西暦1812年、ナポレオン率いる総勢69万もの兵士たちがロシア領内に侵攻しました。ロシア軍はこれを迎え撃つことなく、広大な領地を利用した焦土作戦を行いました。

ロシア国内深くまで侵攻するフランス軍ですが、時期が良くありませんでした。冬将軍と呼ばれる、ロシアの厳しい寒さがフランスを襲います。さらにフランス軍がモスクワに侵攻すると、今度はモスクワを放火しフランス軍の気力を奪いました。

これによりフランス軍はロシア領土内から撤退し、この勢いに乗じてロシアを中心とした対仏同盟を復活させました。

西暦1894年:ニコライ2世の即位

即位式の再現

西暦1894年、ニコライ2世が跡を継ぎました。ニコライ2世は生来の優柔不断なところからか、臣下に政治を任せることが多く、先代のような指導力には恵まれませんでした。

ニコライ2世の戴冠式から数日が経過した頃、即位式典の記念会場に殺到した民衆がドミノ倒しのように倒れる混乱事件が発生し、多数の圧死や負傷者が出ました。しかしニコライ2世と妻アレクサンドラは、この事件に興味を示すそぶりがなかったため、民衆からの反感を買いました。

ニコライ2世の治世中は多くの事件と戦争に悩まされた時代でもあります。

日露戦争

日本海海戦

西暦1904年、日本がロシア艦隊に突然攻撃したことで日露戦争が開戦しました。日本艦隊は開戦後早々にロシアの航海権を獲得しました。

ロシア艦隊は日本の突然の攻撃になすすべがなく、ロシア艦隊はほとんどが壊滅し、ロシアは敗北しました。指揮系統が混乱していたことと、基地や修理施設がなかったことが敗戦の原因だったと言われています。

この敗北をきっかけに、ロシア国内での亀裂が深まり、学生運動や軍隊の指揮は低下していきました。

ロシア第一革命

血の日曜日事件

西暦1905年、血の日曜日事件を皮切りに、ロシア国内で革命が起きます。これをロシア第一革命と呼んでおり、反政府運動や暴動が帝国全土に広がっていったことで、多くの混乱を招きました。

反乱と暴動を治めるために、改革に反対する大臣や臣下を解任し、議会の創設、信仰の自由、母語の使用などを認め、秩序の回復を図りましたが、効果はありませんでした。それどころか民衆の権利はあまりに限定的であり、さらに暴動の激化にまで発展したのです。

第一次世界大戦

西暦1914年、サラエヴォ事件により第一次世界大戦が勃発します。ロシアは連合国軍として、これに参戦しました。

ロシア軍は数的には圧倒的な優位を保っていましたが、タンネンベルクの戦いで20万人相当の兵を喪失するなど、壊滅的な打撃を受けました。さらに兵器や輸送システムなどで先進化が進んでいるドイツには為す術がなく、最後の最後まで辛酸を舐め続けたのです。

西暦1917年:ロシア革命

ソビエト大会で演説するレーニン

西暦1917年1月、民衆の募り積もった不満がとうとう爆発します。民衆は蜂起し、これに軍隊も加わったことで、帝国全土が大混乱に陥りました。

近代的な政治体制についていけなかったロマノフ王朝は打ち倒され、約300年の歴史を閉じました。

民衆の暴動

ロシア二月革命

ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)にて、食料配給を巡るデモが行われていました。このデモは数万人もの規模と、かなり大きいデモではあったものの、比較的穏健なものでした。

しかしデモに加わる人数はさらに増えていきます。市内の住民のほとんどが、このデモに加わるほどとなり、もはや警官隊や騎兵隊のみでの収集は困難でした。

事態の収束を図ったニコライ2世は、首都の治安担当であるハバーロフ将軍にデモを鎮圧するよう指示します。これを受けた将軍は部下に命じ、民衆に対して発砲しました。

多くの市民に死傷者が出たことで、民衆の怒りは頂点に達します。さらにこの事件を知った兵隊の一部は反乱を開始し、同調した兵士たちは散り散りになりました。

もはや暴動を抑えるためには、ニコライ2世の退位は必然でした。民意を組みニコライ2世は退位し、革命派議員たちによる議会が設立され、ソヴィエト=ロシアが成立しました。

ロマノフ家の処刑

血の上の協会
ニコライ2世一家はここで殺害された。

ロシア帝国の最後の皇帝であるニコライ2世には、妻のアレクアンドラの他に5人の子どもがいました。上からオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイです。

ニコライ2世とその家族たちは、ソヴィエトの命によりエカチェリンブルクにあるイパチェフ館に送られました。そしてイパチェフ館の地下室で一家を惨殺したのです。

その際遺体は射殺後、生き延びることがないよう剣で切り裂かれ、銃底で殴るなどして、入念に殺害されたとしています。その後近くの森で遺体は焼かれ埋められました。

ソヴィエトは「ニコライ2世一家は安全な場所に送られた」と公式見解を示しましたが、実のところ彼らはすでに殺されていたのです。1926年に入って、ようやく彼らは一家の死を認めましたが、その時には遺体の損壊がひどく、ソヴィエト側の責任ではないという立場でした。

ロマノフ王朝にまつわる都市伝説

コストロマ

消えたロマノフ王朝の財宝

ダイアモンドが豊富にあしらわれたティアラ

ロマノフ家は世界一の富豪とも言われ、彼らは大量の金銀財宝を保有していたとされています。しかし、そんなロマノフ王朝の財宝たちは、行方知らずのまま未だ発見されていないのです。

一体財宝たちはどこへ消えたのでしょうか。消えた財宝たちは貴族たちによって持ち出されたとする説があるのですが、その後の足取りが判明しておらず確証に欠けています。

実は日本に持ち込まれたという説も存在しています。これは、ロマノフ王朝の将軍ペトロフが王朝崩壊後に満州国に金塊を持ち込みました。

満洲国

しかし外敵に奪われることを恐れたペトロフは、日本軍へ金塊を渡したとされており、その後日本を相手に何度か返還の訴訟を起こしています。日本側はすでに返却したと返答しているため、真実は闇の中です。

皇女アナスタシアの存在

皇女アナスタシア

最後の皇帝ニコライ2世には5人の子どもたちがいました。アナスタシアはニコライ2世の四女で、灰青色の瞳を持つ小柄で愛らしい皇女でした。

ニコライ2世一家が皇居を追われ、エカチェリンブルクに送られたときもアナスタシアはともにいました。そして一家は地下室で銃殺され、ロマノフ家は途絶えました。

しかし、この直後から奇妙な噂が流れることとなりました。なんと四女のアナスタシアが生きているというのです。

ロシア国内外にこの噂は広がっていき、次々とアナスタシアの名を名乗る女性が現れます。これらはDNA鑑定などでアナスタシアではないと否定されています。

ニコライ2世一家の子どもたち

しかしニコライ2世一家が埋められた森の遺骸には2体の遺骨が見つかっておらず、これがアナスタシアが生存している証拠だと考えている人もいます。アナスタシアが生きているならば、すでに100歳を超えています。アナスタシア生存説は都市伝説に近い話になっていると言えるでしょう。

ロシア革命の引き金となった血友病の存在

血友病のメカニズム

ニコライ2世の息子アレクセイはある病気を患っていました。これが血友病です。

この血友病は先天性の疾患で血液凝固に時間がかかり、怪我や打撲などで出血すると、血が止まり辛く出血多量を引き起こす病気です。

そんなアレクセイの病気を治療するため、ニコライ2世と皇后アレクサンドラはさまざまな治療法を試みました。医術や健康術、はたまた祈祷術など。

そんな中、超能力者を名乗る一人の男が宮廷を訪れます。かの有名なグリゴリー・ラスプーチンです。

グリゴリー・ラスプーチン

ラスプーチンはその超能力を使ってアレクセイの病状を助け、ニコライ2世とアレクサンドラの信頼を獲得しました。徐々にラスプーチンの政治的権力は高まっていき、これに不満を感じた貴族たちの存在がロシア革命への引き金になったとも言われているのです。

怪僧ラスプーチン

グリゴリー・ラスプーチン

全名はグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンで、ロシアのシベリアで農民の息子として誕生しました。幼い頃から粗野で横暴な性格だったものの、ロシア正教会の教義に傾倒し、のめり込んだことで頭角を現すようになっていきます。

ラスプーチンは各地に巡礼の旅に出るようになり、人々の病気治療を行って自分の信者を増やしていきました。後に「神の人」と呼ばれるようになったことで、噂を聞きつけた皇帝夫妻と初めて接触することとなりました。

皇帝夫妻の五男アレクセイの治療を行い、病状を回復させたことで皇帝夫妻は絶大な信頼を寄せます。ラスプーチンの宮廷内の権力は増していきました。

アレクセイ

またラスプーチンと皇后は愛人関係にあるとのゴシップも広まり、これを知った閣僚や貴族たちはラスプーチンに権力が集中していくことを恐れ、暗殺計画を実行します。そして1916年、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺されました。

ラスプーチンの暗殺には多くの逸話が残っています。「青酸カリを含んでいる飲み物を飲んでもピンピンしていた」「銃弾で肺と心臓を撃ち抜いたのに目を見開いて動いた」など、彼が怪僧と呼ばれる所以は超能力という不思議な力だけでなく、こういった逸話からも来ているのでしょうね。

ロマノフ王朝に関するまとめ

ロマノフ王朝について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

ロマノフ王朝はロシア最後の王朝にして、激動の時代において300年もの間君臨し続けました。多くの逸話が残されているロマノフ王朝は、今でも人々の関心を集めています。

筆者もロマノフ王朝について記事をまとめたことで、さらに理解を深めることができました。長い記事となりましたが、最後までご一読いただきありがとうございました。

コメントを残す