ロマノフ王朝とは?成り立ちや最期の結末、財宝、歴代皇帝も紹介

アンナ

アンナ・イヴァノヴナ・ロマノヴァ
全名アンナ・イヴァノヴナ・ロマノヴァ
生没年西暦1693‐1740年
在位期間西暦1730‐1740年

1730年にピョートル2世が崩御すると、次期後継者探しに貴族たちは奔走しました。そこで名前が挙がったのが、アンナです。彼女はピョートル1世の姪に当たる人物でした。

当時のロシアでは、たとえ皇室であろうと、女性に対しての教育はなされていませんでした。それはアンナも同様で、政治のほとんどは側近に任せていたようです。不運なことに彼女の治世中は凶作や疫病が続き、「ロシア史の暗黒の10ページ」と呼ばれています。

イヴァン6世

イヴァン6世
全名イヴァン・アントノヴィチ
生没年西暦1740‐1764年
在位期間西暦1740‐1741年

イヴァン6世は先代アンナの姉エカチェリーナの孫に当たります。1740年の誕生直後より、アンナに後継者指名を受け、わずか生後2ヶ月にして即位する形となりました。もちろん政治を執り行うことは難しいため、摂政がおかれました。

しかしながら、翌年1741年に宮廷内でクーデターが起き、ピョートル1世の娘であるエリザヴェータが帝位を奪いました。イヴァン6世は廃位となり、エリザヴェータによって徹底的に存在を抹消されました。

エリザヴェータ

エリザヴェータ・ペトロヴナ
全名エリザヴェータ・ペトロヴナ
生没年西暦1709‐1762年
在位期間西暦1741‐1762年

エリザヴェータは大帝の娘ということもあり、軍隊から非常に人気のある女性でした。1741年に自身が幽閉される可能性があることを知ると、イヴァン6世の摂政を捕らえ、イヴァン6世を廃位したのち、自ら帝位を奪取したのです。

エリザヴェータは内政への関心が薄く、その分精力的に外交に取り組みました。特に対外戦争によって領地を獲得していきます。残念ながら、その頃にはエリザヴェータの体は弱っており、侵攻は志半ばで終わりました。

ピョートル3世

カール・ペーター・ウルリヒ
全名カール・ペーター・ウルリヒ
生没年西暦1728‐1762年
在位期間1762年

エリザヴェータがクーデターにより、女帝の地位につくと、ピョートル3世を養子に迎え後継者にしました。しかし皇帝への教育が不足していたピョートル3世は数々の奇行を繰り返します。

ピョートル3世は胸膜炎を患い、水痘や天然痘に次々とかかってしまいました。彼の妻としてエカチェリーナ2世がロマノフ皇室に入りましたが、すぐに2人は仲違いします。ピョートル3世は痔による発作死と伝えられていますが、暗殺説や病死説という声もあり、真相は闇の中です。

エカチェリーナ2世

ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ
全名ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ
生没年西暦1729‐1796年
在位期間西暦1761‐1796年

ピョートル3世の妻にして、彼亡き後その後を継ぎました。プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世とともに啓蒙専制君主の代表と言われています。

ロシア帝国内の領土を拡大させ、ロシア帝国の繁栄を築きました。さらにエカチェリーナ2世にもピョートル1世に与えられた大帝の称号がつけられています。

パーヴェル1世

パーヴェル・ペドロヴィチ
全名パーヴェル・ペドロヴィチ
生没年西暦1754‐1801年
在位期間西暦1796‐1801年

エカチェリーナ2世の長子にして、彼女の崩御後即位しました。母エカチェリーナ2世とは度重なる確執があったようで、即位後は彼女の政策を否定する政治体制をとります。

次第に臣下から不信感を抱かれるようになり、1801年のクーデターによって暗殺されました。現在に至るまで暴君との悪名が絶えない皇帝です。

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