ロマノフ王朝とは?成り立ちや最期の結末、財宝、歴代皇帝も紹介

西暦1762年:エカチェリーナ2世の即位

エカチェリーナ2世のドレス

ピョートル大帝の死後、後継者問題に悩まされたロマノフ王家。しかし宮廷内のクーデターにより、ドイツから皇室入りしたエカチェリーナ2世が皇帝の座につきます。

女帝として君臨したエカチェリーナ2世は多くの改革や近代化を推し進め、ロマノフ王朝の最盛期を築き上げました。

ロマノフ王朝の最盛期

エカチェリーナ2世は自由経済の促進や、他宗教の信仰を認めるなど、寛容的な思想で政治に当たっていました。さらには教育や医療施設の建築、出版文芸の振興など、近代化政策にも勢力的に着手しました。

新法典の製作にも取り掛かったエカチェリーナ2世でしたが、オスマン帝国との戦争により、こちらは道半ばにして途絶えました。

積極的な対外政策

オスマン帝国の国章
出典:Wikipedia

オスマン帝国との戦争に勝利したロシアは、ウクライナやクリミアの土地を奪取します。さらにはポーランドの征服戦争にも関わり、ポーランドを地図から消滅させました。

ロシアの国際的な影響力を高めるため、積極的に対外政策を講じつつ、ヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を築きました。

自由主義の弾圧

基本的には自由主義を認めていたエカチェリーナ2世でしたが、1789年に起きたフランス革命に脅威を感じ、国内の自由主義を弾圧する方針に切り替わっていきます。特に晩年は強く弾圧し、反乱やクーデターを非常に警戒していました。

その甲斐もあってか、在位期間中に反乱が起きることはありませんでした。エカチェリーナ2世の治世ではロシアを敵国とみなす諸国が多かったため、治世の前半を対外政策、後半を国内政策に振り分け、政治を行っていたという見方もあるようです。

西暦1801年:アレクサンドル1世の即位

ペトロパヴロフスク要塞

アレクサンドル1世は祖母であるエカチェリーナ2世の意思を引き継ぎ、近代化を進めていきました。ヨーロッパにおける君主主義の実現に尽力し、ヨーロッパにおける立ち位置を確立しました。

治世初期には立憲君主制の導入や、農奴制の廃止、教育制度の改革など、ロシア国内の問題点に注目し動き出していました。しかし改革は早急すぎると、保守派の反感を招きいたことで、中途半端な改革に終わりました。

アウステルリッツの戦い

西暦1805年、オーストリア領出会ったアウステルリッツ近郊でナポレオン率いるフランス軍と、ロシア・オーストリア連合軍による戦いが起きました。ロシア・オーストリア軍は数的な優位を持って、フランス軍と相対しましたが、ナポレオンの巧妙な作戦により15000人以上もの死者と多数の捕虜を出すなど大敗を喫しました。

この戦いによって、オーストリアは完全にフランスへ屈服し、オーストリアの皇帝フランツ2世は退位。国の解体という事態をもたらしました。ロシアも多くの兵士を失う痛手を負いました。

祖国戦争

西暦1812年、ナポレオン率いる総勢69万もの兵士たちがロシア領内に侵攻しました。ロシア軍はこれを迎え撃つことなく、広大な領地を利用した焦土作戦を行いました。

ロシア国内深くまで侵攻するフランス軍ですが、時期が良くありませんでした。冬将軍と呼ばれる、ロシアの厳しい寒さがフランスを襲います。さらにフランス軍がモスクワに侵攻すると、今度はモスクワを放火しフランス軍の気力を奪いました。

これによりフランス軍はロシア領土内から撤退し、この勢いに乗じてロシアを中心とした対仏同盟を復活させました。

西暦1894年:ニコライ2世の即位

即位式の再現

西暦1894年、ニコライ2世が跡を継ぎました。ニコライ2世は生来の優柔不断なところからか、臣下に政治を任せることが多く、先代のような指導力には恵まれませんでした。

ニコライ2世の戴冠式から数日が経過した頃、即位式典の記念会場に殺到した民衆がドミノ倒しのように倒れる混乱事件が発生し、多数の圧死や負傷者が出ました。しかしニコライ2世と妻アレクサンドラは、この事件に興味を示すそぶりがなかったため、民衆からの反感を買いました。

ニコライ2世の治世中は多くの事件と戦争に悩まされた時代でもあります。

日露戦争

日本海海戦
出典:Wikipedia

西暦1904年、日本がロシア艦隊に突然攻撃したことで日露戦争が開戦しました。日本艦隊は開戦後早々にロシアの航海権を獲得しました。

ロシア艦隊は日本の突然の攻撃になすすべがなく、ロシア艦隊はほとんどが壊滅し、ロシアは敗北しました。指揮系統が混乱していたことと、基地や修理施設がなかったことが敗戦の原因だったと言われています。

この敗北をきっかけに、ロシア国内での亀裂が深まり、学生運動や軍隊の指揮は低下していきました。

ロシア第一革命

血の日曜日事件

西暦1905年、血の日曜日事件を皮切りに、ロシア国内で革命が起きます。これをロシア第一革命と呼んでおり、反政府運動や暴動が帝国全土に広がっていったことで、多くの混乱を招きました。

反乱と暴動を治めるために、改革に反対する大臣や臣下を解任し、議会の創設、信仰の自由、母語の使用などを認め、秩序の回復を図りましたが、効果はありませんでした。それどころか民衆の権利はあまりに限定的であり、さらに暴動の激化にまで発展したのです。

第一次世界大戦

西暦1914年、サラエヴォ事件により第一次世界大戦が勃発します。ロシアは連合国軍として、これに参戦しました。

ロシア軍は数的には圧倒的な優位を保っていましたが、タンネンベルクの戦いで20万人相当の兵を喪失するなど、壊滅的な打撃を受けました。さらに兵器や輸送システムなどで先進化が進んでいるドイツには為す術がなく、最後の最後まで辛酸を舐め続けたのです。

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