西暦1917年:ロシア革命
西暦1917年1月、民衆の募り積もった不満がとうとう爆発します。民衆は蜂起し、これに軍隊も加わったことで、帝国全土が大混乱に陥りました。
近代的な政治体制についていけなかったロマノフ王朝は打ち倒され、約300年の歴史を閉じました。
民衆の暴動
ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)にて、食料配給を巡るデモが行われていました。このデモは数万人もの規模と、かなり大きいデモではあったものの、比較的穏健なものでした。
しかしデモに加わる人数はさらに増えていきます。市内の住民のほとんどが、このデモに加わるほどとなり、もはや警官隊や騎兵隊のみでの収集は困難でした。
事態の収束を図ったニコライ2世は、首都の治安担当であるハバーロフ将軍にデモを鎮圧するよう指示します。これを受けた将軍は部下に命じ、民衆に対して発砲しました。
多くの市民に死傷者が出たことで、民衆の怒りは頂点に達します。さらにこの事件を知った兵隊の一部は反乱を開始し、同調した兵士たちは散り散りになりました。
もはや暴動を抑えるためには、ニコライ2世の退位は必然でした。民意を組みニコライ2世は退位し、革命派議員たちによる議会が設立され、ソヴィエト=ロシアが成立しました。
ロマノフ家の処刑
ロシア帝国の最後の皇帝であるニコライ2世には、妻のアレクアンドラの他に5人の子どもがいました。上からオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイです。
ニコライ2世とその家族たちは、ソヴィエトの命によりエカチェリンブルクにあるイパチェフ館に送られました。そしてイパチェフ館の地下室で一家を惨殺したのです。
その際遺体は射殺後、生き延びることがないよう剣で切り裂かれ、銃底で殴るなどして、入念に殺害されたとしています。その後近くの森で遺体は焼かれ埋められました。
ソヴィエトは「ニコライ2世一家は安全な場所に送られた」と公式見解を示しましたが、実のところ彼らはすでに殺されていたのです。1926年に入って、ようやく彼らは一家の死を認めましたが、その時には遺体の損壊がひどく、ソヴィエト側の責任ではないという立場でした。
ロマノフ王朝にまつわる都市伝説
消えたロマノフ王朝の財宝
ロマノフ家は世界一の富豪とも言われ、彼らは大量の金銀財宝を保有していたとされています。しかし、そんなロマノフ王朝の財宝たちは、行方知らずのまま未だ発見されていないのです。
一体財宝たちはどこへ消えたのでしょうか。消えた財宝たちは貴族たちによって持ち出されたとする説があるのですが、その後の足取りが判明しておらず確証に欠けています。
実は日本に持ち込まれたという説も存在しています。これは、ロマノフ王朝の将軍ペトロフが王朝崩壊後に満州国に金塊を持ち込みました。
しかし外敵に奪われることを恐れたペトロフは、日本軍へ金塊を渡したとされており、その後日本を相手に何度か返還の訴訟を起こしています。日本側はすでに返却したと返答しているため、真実は闇の中です。
皇女アナスタシアの存在
最後の皇帝ニコライ2世には5人の子どもたちがいました。アナスタシアはニコライ2世の四女で、灰青色の瞳を持つ小柄で愛らしい皇女でした。
ニコライ2世一家が皇居を追われ、エカチェリンブルクに送られたときもアナスタシアはともにいました。そして一家は地下室で銃殺され、ロマノフ家は途絶えました。
しかし、この直後から奇妙な噂が流れることとなりました。なんと四女のアナスタシアが生きているというのです。
ロシア国内外にこの噂は広がっていき、次々とアナスタシアの名を名乗る女性が現れます。これらはDNA鑑定などでアナスタシアではないと否定されています。
しかしニコライ2世一家が埋められた森の遺骸には2体の遺骨が見つかっておらず、これがアナスタシアが生存している証拠だと考えている人もいます。アナスタシアが生きているならば、すでに100歳を超えています。アナスタシア生存説は都市伝説に近い話になっていると言えるでしょう。
ロシア革命の引き金となった血友病の存在
ニコライ2世の息子アレクセイはある病気を患っていました。これが血友病です。
この血友病は先天性の疾患で血液凝固に時間がかかり、怪我や打撲などで出血すると、血が止まり辛く出血多量を引き起こす病気です。
そんなアレクセイの病気を治療するため、ニコライ2世と皇后アレクサンドラはさまざまな治療法を試みました。医術や健康術、はたまた祈祷術など。
そんな中、超能力者を名乗る一人の男が宮廷を訪れます。かの有名なグリゴリー・ラスプーチンです。
ラスプーチンはその超能力を使ってアレクセイの病状を助け、ニコライ2世とアレクサンドラの信頼を獲得しました。徐々にラスプーチンの政治的権力は高まっていき、これに不満を感じた貴族たちの存在がロシア革命への引き金になったとも言われているのです。
怪僧ラスプーチン
全名はグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンで、ロシアのシベリアで農民の息子として誕生しました。幼い頃から粗野で横暴な性格だったものの、ロシア正教会の教義に傾倒し、のめり込んだことで頭角を現すようになっていきます。
ラスプーチンは各地に巡礼の旅に出るようになり、人々の病気治療を行って自分の信者を増やしていきました。後に「神の人」と呼ばれるようになったことで、噂を聞きつけた皇帝夫妻と初めて接触することとなりました。
皇帝夫妻の五男アレクセイの治療を行い、病状を回復させたことで皇帝夫妻は絶大な信頼を寄せます。ラスプーチンの宮廷内の権力は増していきました。
またラスプーチンと皇后は愛人関係にあるとのゴシップも広まり、これを知った閣僚や貴族たちはラスプーチンに権力が集中していくことを恐れ、暗殺計画を実行します。そして1916年、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺されました。
ラスプーチンの暗殺には多くの逸話が残っています。「青酸カリを含んでいる飲み物を飲んでもピンピンしていた」「銃弾で肺と心臓を撃ち抜いたのに目を見開いて動いた」など、彼が怪僧と呼ばれる所以は超能力という不思議な力だけでなく、こういった逸話からも来ているのでしょうね。
ロマノフ王朝に関するまとめ
ロマノフ王朝について解説してきました。いかがでしたでしょうか。
ロマノフ王朝はロシア最後の王朝にして、激動の時代において300年もの間君臨し続けました。多くの逸話が残されているロマノフ王朝は、今でも人々の関心を集めています。
筆者もロマノフ王朝について記事をまとめたことで、さらに理解を深めることができました。長い記事となりましたが、最後までご一読いただきありがとうございました。