ロマノフ王朝とは?成り立ちや最期の結末、財宝、歴代皇帝も紹介

アレクセイ

アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ
全名アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1629‐1676年
在位期間西暦1645‐1676年

アレクセイはミハイル・ロマノフの長男で、父の跡を継ぎ、16歳で2代目ツァーリに即位します。アレクセイの時代に貴族たちの権力が薄れ、ツァーリ自身が自ら政治を執り行うようになっていきました。

アレクセイが行った経済政策は民衆の反乱を度々起き、モスクワ市民の蜂起を招きました。1666年にはモスクワ教会会議を開催し、モスクワ総主教であるニーコンを追放。教会の改革に反対する者は全員を破門にすることを定め、教会分裂を引き起こしました。

フョードル3世

フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1661‐1682年
在位期間西暦1676‐1682年

フョードル3世はアレクセイの3男で、父の跡を継いで即位します。父が追放したニーコンの名誉改革を行った他、特定の宗教派への弾圧を続けました。

1680年にポーランド系貴族のアガフィヤと結婚します。しかしアガフィヤは最初の出産で、子どもとともに命を落とし、その後を追うように20歳の若さで病死しました。

イヴァン5世

イヴァン・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名イヴァン・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1666‐1696年
在位期間西暦1682‐1696年

フョードル3世の弟で、兄の急逝によりツァーリとして擁立され即位しました。生まれながらに弱視や失語症などの障害があり、ツァーリの候補から外れていましたが、政権維持の目的によって即位したという背景があります。

病弱なツァーリを補佐する目的で、弟ピョートル1世が共同統治者になりました。ピョートル1世は病に苦しみながらも、政務に携わる兄の姿に、尊敬していたと伝えられています。

ピョートル1世

ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1672‐1725年
在位期間西暦1682‐1725年

アレクセイの六男にして、ロシアを帝国へと昇華させた人物です。ピョートル1世は大北方戦争や首都サンクトペテルブルグの建設など、ロシアをヨーロッパ列強へと推し進めました。

ピョートル1世はピョートル大帝とも呼ばれ、身長2メートルを超す大男だったと言われています。「活動的な筋肉労働者的な哲人皇帝」と評され、国民から愛されました。

エカチェリーナ1世

マルファ・サムイロヴナ・スカヴロンスカヤ・エカチェリーナ・アレクセーエヴナ
全名マルファ・サムイロヴナ・スカヴロンスカヤ・
エカチェリーナ・アレクセーエヴナ
生没年西暦1684‐1727年
在位期間西暦1725‐1727年

エカチェリーナは農民の娘で、ドイツ人牧師の家に引き取られました。その後大北方戦争が起きたことで彼女はロシア軍の捕虜となり、ロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れてこられました。

その後別の将軍アレクサンドル・メーンシコフの家に召し抱えられ、最終的にピョートル1世に献上されたという異色の経歴を持っています。健康で快活な女性で、治世はわずか2年ほどでしたが、ピョートル1世の改革を引き継ぎ、国政を進めました。

ピョートル2世

ピョートル2世・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
全名ピョートル2世・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
生没年西暦1715‐1730年
在位期間西暦1727‐1730年

ピョートル1世の孫でありながら、父が廃嫡され皇位継承権を失ったことから、悲壮な少年期を過ごしていました。しかしエカチェリーナは1世が死去する直前、次の後継者候補としてピョートル2世を帝位継承権から外すわけにはいかないと考えた貴族たちは、彼を擁立し1727年に即位させました。

ピョートル2世の妻として、当時ロシアで権力を持っていたドルゴルーコフの次女エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァが選ばれました。残念ながら結婚式直前に天然痘にかかり、その日のうちに亡くなってしまったことで、ロマノフ家直系の男子は途絶えたのです。

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