アレクサンドル1世
全名 | アレクサンドル・パヴロヴィチ |
生没年 | 西暦1777‐1825年 |
在位期間 | 西暦1801‐1825年 |
パーヴェル1世の長子で、父王暗殺後、帝位を継承しました。在位中にナポレオン戦争を経て、強権的な政治を行いました。
アレクサンドル1世は美男子で社交性に富み、知的さや優美さを感じられる佇まいから、ナポレオンは「北方のタルマ(当時の有名な俳優)」と称していました。しかしこれは皮肉が込められており、その実彼の優柔不断な態度や偽善的で狡猾な男と評していたのです。
ニコライ1世
全名 | ニコライ・パヴロヴィチ |
生没年 | 西暦1796‐1855年 |
在位期間 | 西暦1825‐1855年 |
パーヴェル1世の三男で、アレクサンドル1世の急死と、次男コンスタンティン大公の皇位継承権放棄により、即位しました。ニコライ1世は先代アレクサンドル1世同様、強権的な政治に重きをおいていました。
人物像としては軍人のような保守性と厳格さを持ち合わせた人格者であったと伝えられています。特に教育に力を入れており、息子を育てる際に放った「私は息子を人間として育てたいのだ」という言葉は後世にまで伝わっています。
アレクサンドル2世
全名 | アレクサンドル・ニコラエヴィチ |
生没年 | 西暦1818‐1881年 |
在位期間 | 西暦1855‐1881年 |
幼い頃から帝王学を学んでいたアレクサンドル2世は、父ニコライ1世が崩御した後、帝位につきました。アレクサンドル2世は、旧社会的な制度を払拭しようと、農奴制の解体や完全徴兵制など、大改革を推し進めていきます。
しかし改革の裏には、少なからず反感が生じてしまいます。各地でデモや反乱が発生し、アレクサンドル2世はその対応に追われることとなりました。
アレクサンドル3世
全名 | アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ |
生没年 | 西暦1845‐1894年 |
在位期間 | 西暦1881‐1894年 |
兄アレクサンドル2世の後を継いで即位しました。生来の人間味あふれる性格から、多くの臣民に慕われる皇帝だったと伝えらえています。
夫婦仲も良く、アレクサンドル3世は当時にしては珍しく愛人を作りませんでした。1894年に腎不全を発症し、妻マリアの腕の中で静かに息を引き取りました。
ニコライ2世
全名 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ |
生没年 | 西暦1868‐1918年 |
在位期間 | 西暦1894‐1917年 |
アレクサンドル3世の長男で、父亡き後帝位の座につきました。幼い頃から次期皇帝が確約されていたこともあって、多くの英才教育を受けますが、ニコライ2世自身は勉強熱心ではなかったようです。
日露戦争、第一次世界大戦においてロシア代表として立ち回るも、内政が疎かになったことで、革命勢力の助長、ロシア革命を招きました。1918年に一家ともども処刑され、森に埋められました。
ロマノフ王朝の歴史
西暦1613年:ロマノフ王朝の誕生
先王朝のリューリク朝が滅亡し、ロシア国内の動乱期に入ると、着実に力をつけていたロマノフ家が台頭してきました。ポーランドに占領されていた首都モスクワを奪還し、その功績が広く認められたことでロマノフ家が次期ツァーリの座につくこととなりました。
初代ツァーリはミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ。彼の即位によってロマノフ家の300年の歴史が始まりました。
西暦1682年:ピョートル大帝の即位
初代ツァーリのミハイル、2代目ツァーリのアレクセイと世襲制を取っていたロマノフ家。対外戦争に悩まされながらも確実に帝政の基盤固めをしていました。
アレクセイの末子であるピョートル大帝の即位によって、ロシア国内・国外には大きな風が吹き荒れることとなります。
大北方戦争
西暦1699年、ピョートル大帝は当時のポーランドやデンマークと反スウェーデン同盟を結びます。1700年にスウェーデンと反スウェーデンの間で北方を巡る戦争(大北方戦争)が起き、覇権争いに参加することとなりました。
ロシア軍はナルヴァの戦いで惨敗するも、その後軍備増強を図ったロシア軍は破竹の勢いで周辺各地を支配しました。ロシア海軍の功績によってバルト海領域の覇権を獲得したものの、つかの間スウェーデン側の勢力が強くなったことで、領海権を手放さざるを得ない事態にまで追い込まれました。
その後も戦争は続き、領地を取ったり、逆に奪い返したりと事態の好転はないまま20年もの月日が経ちます。最終的にはスウェーデンの敗北に終わり、バルト海の覇権だけでなく、スウェーデンの領地を多く奪い取りました。
首都サンクトペテルブルクの建設
西暦1703年、港湾都市の建設を推し進めました。ピョートル大帝はこの地に「聖ペトロの街」という意味を込めてサンクトペテルブルクと名付けたのです。
この都市は新しい貿易港として、バルト海交易の中継地点的な役割を担いました。1712年ごろにはサンクトペテルブルクに貴族や商人、職人など多くの国民たちを移住させ、首都として形成していったのです。