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犬養毅とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や政策内容、五・一五事件の真相も】

犬養毅は明治から昭和初期に政治家として活躍し、後に総理大臣となるものの、五一五事件で暗殺された人物です。40年にわたり衆議院議員として活動し、大正デモクラシーを牽引や普通選挙法を成立させる等の功績を残しました。

また犬養毅と言えば五一五事件のエピソードが有名でしょう。「話せばわかる」「問答無用、撃て」のやり取りは一度は耳にした事があると思います。犬養毅の暗殺は、政党政治の終わりと軍部の台頭の始まりを告げる出来事でした。

大礼服を着用した犬養毅

しかしその知名度とは裏腹に、犬養毅の生涯については知らない事も多いのではないでしょうか?犬養毅は新聞記者として西南戦争の最前線へ向かったり、中国と太いパイプを持ち革命家達の支援を行う等、様々な経歴を持った人物です。そして功績だけではなく、軍部の暴走の引き金を引いた人物でもあります。

犬養毅は政治家の責任の重さ、言葉の影響力の大きさを再認識させてくれる人物です。今回は近現代史が大好きで、歴代総理大臣の名前と功績を丸暗記した筆者が、犬養毅の生涯や功績について紹介します。

犬養毅とはどんな人物か

名前犬養毅
誕生日1855年6月4日
没日1931年5月15日
生地備中国賀陽郡川入村(現岡山市)
没地東京都東京市
配偶者犬養千代
埋葬場所青山霊園

犬養毅の生涯をダイジェスト

晩年の犬養毅

犬養毅の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1855年 備中国川入村(現在の岡山県)で誕生
  • 1876年 上京して慶應義塾に進学、翌年新聞記者として西南戦争に従軍
  • 1880年 慶應義塾を中退し、記者となる
  • 1882年 大隈重信が結成した立憲改進党に入党
  • 1890年 第一回総選挙に当選
  • 1913年 第一次護憲運動の先頭に立ち、憲政の神様と呼ばれる
  • 1925年 加藤高明内閣に入閣し、普通選挙法を成立させる
  • 1929年 政治家を引退していたが、政友会の総裁として担ぎ出される
  • 1931年 犬養内閣発足
  • 1932年 五・一五事件で暗殺される(享年77歳)

犬養内閣で行った政策の内容とは?

犬養内閣の閣僚一覧

犬養内閣は1931年12月に発足します。主な政策は以下の通りです。

  • 昭和恐慌からの脱却の為に積極財政を行う
  • 満州国の承認に対して中華民国と交渉を行う

当時の日本は世界恐慌の影響から深刻なデフレとなっており、農村では娘を身売りする事態も起きていました。これは前任の浜口雄幸が金解禁を断行した失政が大きな原因です。

犬養は財務大臣に高橋是清を起用し金解禁を停止。紙幣をたくさん刷り、デフレの脱却を図ります。公共事業や軍費にお金を回して積極財政を行った為、日本は世界最速で世界恐慌から脱却しました。

外交面の構想として犬養は満州国を日本の経済的支配下に置きつつ、形式的な所有権は中国に任せるつもりでした。犬養は中華民国と非公式の会談を計画しましたが、内閣の中に方針に反対する者がいた為、実現出来ていません。

犬養は軍費にも予算の増額をした為、意外にも軍部との関係は悪くありませんでした。しかし陸海軍の若手将校の中には犬養に不満を持つ者がおり、後の暗殺事件に繋がるのです。

犬養毅が憲政の神様と呼ばれる理由は?

第一次護憲運動で犬養毅と尾崎行雄

犬養は第一次護憲運動を主導した功績から「憲政の神様」と呼ばれています。明治から大正の時期は薩摩長州の出身者が藩閥を形成して政治を牛耳っており、犬養は批判していました。

1912年には立憲政友会の第二次西園寺公望内閣が陸軍と予算の対立を巡り総辞職します。その後に組閣したのは長州閥による桂太郎でした。3度目の内閣であり、国民の批判は高まりました。

犬養は立憲国民党に所属していましたが、立憲政友会の尾崎行雄と共に内閣不信任案を提出。「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに憲政擁護運動を行います。それに対して桂内閣は議会を停止した為、国民は激怒しました。

国会議事堂に群衆が押し寄せ、警察署や新聞社が襲われる事態となり、内閣は62日で退陣します。一連の流れは大正政変と呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すものでした。

犬養の行動は民衆が「政権を動かす」事を証明したのです。

犬養毅の死因「五・一五事件」の真相とは?暗殺だったのか?

五・一五事件を報道する新聞

犬養は1932年5月15日に海軍の青年将校に暗殺されました。この事件を五・一五事件と呼びます。日曜日に犬養が首相官邸でくつろいでいると、17時30分頃に青年将校と陸軍の士官候補生の一団が官邸に乱入しました。

将校がピストルの引き金を引くものの、これは空砲で不発に終わります。犬養は動じずに「話せば分かる」と彼らを応接間に案内。応接間で将校は有名な台詞「問答無用、撃て」と叫び、犬養に3発の銃弾が撃ち込まれます。

将校達は犬養を狙撃しその場を去るものの、犬養は「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べる等、意識ははっきりしていました。当初は気丈に振る舞うものの、23時26分に犬養は死去します。

本来なら厳罰に処するべき実行犯達ですが、政党政治の腐敗等から同情の声も多く、全国から100万通を超える減刑を訴える嘆願書が届いています。

結果的に実行犯達は禁錮10年といった軽い罪にとどまっています。これらの処遇からテロを起こしても大した罪には問われないという解釈がなされ、二・二六事件に繋がっていくのです。

犬養毅の家族構成や子孫は?ひ孫に有名人がいるって本当?

家族と写真を撮る犬養

犬養には先妻と後妻の他に仙という内縁の妻がいました。犬養の子どもは仙との間に出来た子です。

長男の彰は犬養の後妻と仲が悪く、廃嫡されて四国に送られました。嫡男になったのは健(次男もしくは三男)でした。健は犬養毅内閣の秘書官の他、吉田茂内閣の法務大臣を務めています。

以下の人達は犬養毅の孫にあたります。

  • 犬養道子(1921〜2017):健の長女で評論家やエッセイストとして活躍
  • 犬養康彦(1928〜2015):健の長男で共同通信社の社長を務める
  • 安藤和津(1948〜):健の次女でエッセイストやタレントとして活躍。夫は俳優の奥田瑛二

以下の人達は犬養毅の曾孫にあたります。

安藤桃子(左)と安藤サクラ(右)
  • 緒方貞子(1927〜2019):毅の長女操の血筋にあたり、日本政府アフガニスタン支援特別代表や元国連難民高等弁務官の要職を歴任する
  • 安藤桃子(1982〜):安藤和津の長女で映画監督
  • 安藤サクラ(1986〜):安藤和津の次女で女優

犬養家は幅広い分野で活躍している事が分かりますね。

犬養毅の功績

功績1「優れた演説や性格から多くの国民に慕われる」

演説をする政友会総裁の頃の犬養毅

犬養は悪や卑劣を憎む性格で藩閥という巨大な権力にも媚びる事はなかった為、国民から慕われていました。ただ思った事をすぐ口に出す性格から政敵も多く、毒舌家とも評されています。

犬養の演説は無駄がなく、そのオーラも相まって、聴く人の背筋が凍る程でした。1925年には政治家を引退するものの、選挙区の岡山の支持者達は勝手に犬養を立候補させ、当選させ続けていたのです。

満州事変の勃発等、軍部が暴走を始める中で犬養が総理大臣になったのは、国民が犬養を支持していたからでした。犬養は軍部に屈する事なく亡くなり、葬儀には2万人もの参列者が集まったそうです。

功績2「普通選挙法を導入し、成年男子全員に参政権を与えた」

護憲三派 犬養毅(左) 高橋是清(左から2番目) 加藤高明(右から2番目)

犬養は1924年に発足した加藤高明内閣の逓信大臣として入閣し、翌年に普通選挙法を成立させます。「25歳以上の全ての男性」が選挙権を持ち、有権者は国民全体の20.1%と元々の5.5%から大幅に拡大しました。

加藤高明内閣の前の清浦奎吾内閣は貴族院議員が主体の内閣でした。貴族院議員は華族等の貴族階級によって構成され、国民の選挙で選ばれていません。犬養は憲政擁護をスローガンに第二次護憲運動を展開しました。

この時に犬養と共に立ち上がったのが、立憲政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明でした。彼らの政党と犬養毅が所属する革新倶楽部は護憲三派と呼ばれ、政党内閣の樹立や普通選挙の実現等を政策として掲げました。

護憲三派の主張は国民の支持を受け、1924年の総選挙では、護憲三派が多数の議席を確保します。普通選挙法が成立したのは犬養の功績でしょう。

功績3「アジアとの連携を説き、孫文や蒋介石を支援する 」

頭山満(左)と蒋介石(右)と写真を撮る犬養毅

犬養は日本が欧米と渡り合う為にはアジアの国々が強くなる必要があると考えていました。この思想をアジア主義と呼びます。犬養は頭山満と共に日本を代表するアジア主義の功労者とされており、国外での知名度はとても高いのです。

犬養は孫文や蒋介石等の中国の革命家や、ラース・ビハーリー・ボース等のインドの独立運動家を積極的に支援しています。特に孫文が起こした辛亥革命では犬養自らが中国に渡り、知り合いの生家に匿っています。

犬養のおかげで孫文は中華民国の建国を成功させています。後に孫文が提唱した中国子女の為の学校である中華学校が日本に設立されますが、犬養はそれらの名誉校長を務めていました。

犬養と中国人革命家との信頼は厚く、満州事変の処理についても彼らとのパイプを活かして対処するつもりだったようです。暗殺されなければ、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

犬養毅の名言

死の間際にも名言を残している

政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。

政党政治は政策の達成ではなく、政権を担う事が目的になる危険性をはらんでいます。犬養は政党政治の問題点を早くから見抜いており、それを監視するのが言論なのだと説いたのです。

四十余年間、政治を専門にやってきたものの、
その間、失敗もしたが成功もしたと言いたいが、
実は失敗だらけである。

犬養が一度政治家を引退した時の声明です。犬養は総裁として復帰するものの統帥権問題で最大の失敗をおかしています。何年政治家を続けても、その政務の難しさが分かります。

9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか

五・一五事件では9発の弾丸が撃たれ、そのうち3発が犬養に被弾しました。犬養は全弾命中させられなかった軍部の訓練の精度の低さを嘆いたのです。

そんな腕前では日本の将来は不安だと思ったのかもしれません。犬養は死の間際まで日本の未来を憂う政治家の鏡だったと言えますね。

犬養毅の人物相関図

犬養毅の家系図

前述した通り犬養毅のひ孫は安藤サクラですが、彼女は柄本佑と結婚しています。柄本家も多くの俳優が生まれた家系であり、2人の結婚は華麗なる一族とも呼ばれました。

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