犬養毅とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や政策内容、五・一五事件の真相も】

犬養毅の簡単年表

1855年
犬養毅誕生

1855年6月4日に備中国賀陽郡川入村(現在の岡山県岡山市)にて誕生します。幼き頃から漢学や経学等を学び学業の面で頭角を現したそうです。

1876年 – 21歳
上京して慶應義塾に通う

上京して慶應義塾に通います。学費を稼ぐ為に新聞社に記事を寄稿する等忙しい日々を送ります。本格的に記者としての道を歩む為、1880年に慶應義塾を卒業直前に中退しました。

1882年 – 27歳
立憲改進党に入党

1880年頃に大隈重信と出会い親交を深めます。後に大隈が結成した立憲改進党に入党し、国会開設に向けて活動を続けました。

1890年 – 36歳
第一回衆議院議員選挙に当選する

第一回衆議院議員選挙に岡山から立候補し、大差で当選。以降は42年間の議員生活で18回連続当選という記録を打ち立てます。以降様々な政党を結成し、民主政治の重要性を説きました。

1913年 – 59歳
第1次護憲運動を起こす

第三次桂太郎内閣に対して尾崎行雄と共に不信任案を提出。桂太郎内閣の倒閣に大きな影響を与え、憲政の神様と呼ばれます。しかし犬養の所属する立憲国民党は桂太郎により勢力を削がれ、長年にわたり苦労を重ねます。

1925年 – 70歳
政治家を引退を決意する

超然内閣である清浦奎吾内閣に対し、犬養は護憲三派と共に第二次護憲運動を展開。犬養は加藤高明内閣の逓信大臣として普通選挙法成立に尽力しました。

1925年には政治家を引退しますが、同郷の人達がそれを許さない状況が続きます。

1929年 – 74歳
政友会の総裁となる

政友会の総裁のポストが空くと犬養は総裁に担ぎ上げられます。1931年には軍部の暴走の原因となる統帥権干犯問題を引き起こします。

1931年 – 76歳
内閣総理大臣に就任

民政党の第二次若槻禮次郎内閣が退陣し、政友会が与党となります。犬養は総理大臣となり、昭和恐慌からの一早い脱却を図りました。

1932年 – 76歳
五・一五事件で暗殺される

満州国の承認について消極的な態度をとった為、犬養は海軍の若手将校から恨みを買いました。1932年五・一五事件で暗殺され、76歳で生涯を終えました。

犬養毅の年表

1855年 – 0歳「犬養毅誕生」

犬養毅の生家

代々庄屋を務めた犬養家

犬養毅は1855年6月4日に備中国賀陽郡川入村で犬飼源左衛門と嵯峨の次男として誕生します。犬養家は庭瀬藩で代々庄屋を務めた一族であり、苗字帯刀を許された名家でした。

源左衛門の苗字が犬飼なのは誤植ではなく、犬養家の人々は代々「犬飼」と「犬養」を使い分けていました。犬養毅は1875年頃から「犬養」を自分の苗字として名乗っています。

幼き頃から勉学に励む

父親の源左衛門は儒学者であり、犬養も幼少期から手ほどきを受けています。5歳の頃には儒教の教えである四書五経を父から教わりました。

6歳の頃には庭瀬藩医の森田月瀬に漢学を学び、10歳の頃には犬養松窓の三餘塾に入り経学を修めています。犬養は父の才能を受け継ぎ、優れた成績を修めています。父は犬養を立派な学者にしたいと考えていたのです。

1868年 – 13歳「父である源左衛門の死」

犬養松窓の著した「孫子活説」版木

犬養家の明治維新

1868年に江戸時代が終わり明治を迎えますが、父である源左衛門が病死。家督は兄が継いだものの、犬養家は没落していきます。生活は苦しくなり、今までのように余裕を持って漢学に励む事は出来ませんでした。

犬養は兄に頼らずに生活と勉学を両立する為、自宅の一室で寺子屋を開いています。後に犬養松窓が倉敷の明倫館へ招かれると、犬養は母方の親戚の家に居候して松窓から教えを受けました。

上京して洋学を学ぶ事を決意する

1871年の廃藩置県により庭瀬藩は小田県となり、犬養は県庁職員として働きます。この頃から漢学だけでなく西洋学にも興味を持ちはじめ、国際法や議会政治等の政治思想や法律学を独学で学びました。

犬養は本格的に勉強をしたいと決意。当時の犬養家には上京させる財力はありませんでしたが、姉の夫が商業で成功した経緯もあり、様々な工面を経て上京します。1874年、犬養が19歳の時でした。

1874年 – 19歳「上京し慶應義塾に通う」

郵便報知新聞をもとにした錦絵新聞

貧乏学生だった犬養毅

上京した犬養は学費と寮費が安く、英語も学べる共慣義塾に通います。収入源として郵便報知新聞への寄稿(原稿を書き送る事)を始めました。なお犬養は共慣義塾で英語の初歩を学びますが、寮の環境はかなり劣悪でした。

1876年には寄稿料を元手に慶應義塾に転学。寮の環境はいくらか改善し、英語もより詳しく学ぶ事が出来たようです。この頃の犬養は一切友人と交際する事なく勉学に励んでいます。

1877年 – 22歳「西南戦争後に慶應義塾を退学する」

西南戦争にて出陣する不平士族達

学費の為に西南戦争に参加する

1877年に士族の反乱である西南戦争が起こると、犬養は郵便報知新聞から従軍記者として記事を書く事を打診されます。学費の援助を提案され、犬養は慶應義塾を休学して戦地へと赴きました。

犬養は3月に田原坂の戦いが行われる戦地に到着。犬養は銃撃戦の中を走り、野宿や夜戦にも加わります。記事は「戦地直報」と題され、戦地の状況を生彩に生々しく書き上げた事から高い評価を受けました。

慶應義塾を退学する

西南戦争帰還後は、郵便報知新聞から記事の本数を増やすよう強要された為、程なく関係を断ちました。その後は同郷の友人から翻訳文添削の仕事を回してもらい、学費を稼ぎます。

1880年に犬養は栗本鋤雲に誘われて、卒業間近の慶應義塾を中退。本格的に記者としての道を歩みました。8月には財閥三菱の支援を受けて「東海経済新報」を創刊。ジャーナリストとして犬養は頭角を現していくのです。

1881年 – 26歳「大隈重信と出会う」

大隈重信

大隈重信との出会い

この頃に犬養は大隈重信と出会っています。当時の明治政府は薩摩や長州の出身者が藩閥政治を行っていましたが、大隈は国会開設や民主的な政党政治の重要性を説き、藩閥政治に対抗していました。

大隈は犬養のジャーナリストとしての熱意と才能を認め、国会開設が実現した時に政府委員になって欲しいとお願いしています。1881年7月に犬養は大隈の推薦で統計院権少書記官に任命され、役人となりました。

明治十四年の政変

それから3ヶ月後、明治十四年の政変が起こります。大隈重信が政府から追放された他、政府は10年以内に国会を開設すると詔を出しました。犬養や尾崎行雄等、大隈派の一派も大隈と共に下野しています。

なお大隈は自身の意見を世に伝える為、郵便報知新聞社を買収。犬養は郵便報知新聞社に復籍し、大隈の意見を世の中に広めていく使命を得ました。

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